この日は空は青く晴天で、朝から暑い日でした。その日は、三篠高等国民学校 高等科一年生佐久間組の家屋強制疎開の勤労動員に行く日でした。七時三〇頃家を出ました。学校に着き点呼をして、五〇分頃に学校を出ました。山陽本線の踏切を渡り、市電道りの左側を二列に並んで、広島市の中心部に向かって歩きました。私は横川橋を渡る手前で急に体調が悪くなり、物陰に座り込んでいました。その時、黄色い物凄い閃光がして、その瞬間二〇―三〇メートルぐらい飛ばされ気を失っていました。一〇分か一五分だと思います。ふと気が付き回りを見ると、家屋はみんな吹き飛び、回りには人が倒れ助けを求め叫んでいました。熱傷し怪我し倒れている人、家の下敷きになり助けを求め叫ぶ声、道路に転がっている即死の人。もう考えられない光景です。
私は、ただ夢中で家へ向かいました。色々の物をよけ、ただ夢中で歩きました。頭の傷からは大量の血が顔の左側に流れています。作業用の軍手で頭の傷を押さえていましたが、軍手の血は絞るほどです。その顔の左側は熱傷もして、皮膚が剥がれ垂れ下がり、その上を頭の傷から血が流れていました。
家までやっとの思いで帰りましたが、家は跡形も無く吹き飛ばされていました。ただ、レンガ作りの洋館の建物の外観は残っていました。家には父と兄と弟と祖母がいました。母は町内会の勤労奉仕で家屋強制疎開に行き、行方不明です。父は家で被爆し顔から胸にかけて熱傷と怪我をして居ました。その後原爆症で寝たり起きたりで五年後の昭和二五年九月七日兵庫県で死亡。祖母は自宅のレンガ作りの洋館にいて無傷で無事でしたが、一ヶ月後の昭和二〇年九月二〇日突然倒れ、翌九月二一日息を引き取りました。兄も家にいて怪我をしましたが無事でしたが、平成一五年一〇月二二日、胃癌と大腸癌で死亡しました。妹はお寺で学習中に被爆、お寺は壊れ下敷きになり、辛うじて這い出し家に帰って来ました。顔に怪我をしていました。生後八ヶ月の弟はミシンの下にして無傷で無事でいたが、被爆後、体全体に化膿し穴があき、一年じくじくと化膿していました。私の家族は七人でした。被爆時の住所は広島市楠木町四丁目一一六番地です。疎開先は安芸長束蓮光寺八月七日、いつまでも帰って来ない行方不明の母を探しに父と兄と私は、市内中心部を、一週間探し回りましたが、母は見つかりませんでした。母の遺骨は今もありません。市内は死体の山でした。川にも死体が沢山あり地獄でした。あの光景は言葉では言い表せません。何日経っても死体の整理は出来ていませんでした。死体の山が沢山あり、重油をかけて焼いていました。二週間経ってもくすぶっていました。
途中で別れた学友は市内中心部に行き全員死亡しました。その時の私の行動を証明してくれる証人は一人もいません。全員死亡の名簿に行方不明一人と書いてあるのが私でないかと、思います。
私も途中で気分が悪くならなかったら、又もしも立っていたら、きっと死んでいたと思います。
私は被爆後、脱毛、吐き気、下痢、頭痛が続きました。頭痛は四〇年以上続き、今でも頭を振ると、ツンツン、ツンツン、ブルブルと頭の中で音がします。
被爆後、四二度以上の高熱で何度も倒れました。原因は不明です。肺門炎、大腸炎、胃潰瘍、尿道結石、大腸ポリープ切徐、腰痛、膝痛など。今まで色々な病気をしてきました。平成二年から一〇年続けて来た胃カメラ検査の結果、ほって置くと癌になるとのことで、早急に手術をすることになり、平成一二年三月、胃粘膜下腫瘍の手術六時間三〇分。
今まで私を苦しめて来た様々な病気は「原爆のせいだ」と私は思っています。一昨日九月、会のお世話で「被爆症の認定」を求めて、第一回の集団申請に参加しました。しかし、昨年四月厚生労働省は却下してきました。が、私はどうしても納得できません。苦しみながら死んで行った父、母、祖母、兄のこと、全員爆死した友達のこと、そして病気に痛めつけられながら、生活と闘って、生き抜いてきた自分の人生を振り返って、原爆の残酷なこと、いつまでも続く放射能の恐ろしさを、多くの人にわかって欲しいと思い、この度、皆さんと一緒に九月三〇日横浜地方裁判所に起訴することを決意しました。
私は煙草は一度も吸った事はありません。お酒は週に一、二回一合程度です。亡くなった父には、体力を付けないと動けなくなると言われたことを守り、健康と体力つくりの為にウォーキングや水泳を続けています、病気に負けない体作りの為です。
いつ迄続くか分からない裁判に勝利するまで、体力を維持し生き抜いて、頑張る覚悟です。
九月三〇日に提訴する裁判は、これからが本番です。皆様のご支援を、どうぞよろしくお願い致します。
本日は、県知事始め多くの方々にご参列いただき、盛大な慰霊祭を開催していただき、ありがとうございました。遺族を代表し、御礼を申し上げます。
遺族代表 横山 弘
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