皆さん今日は。今七二歳の吉田悦子です。よろしくお願いします、原爆が落ちた時は四歳と八ヶ月でした。
原爆が投下された昭和二〇年八月六日から六八年になりますがこれまで私は恐ろしくて平和公園に行く事が出来ませんでした。福島の原発事故と自分自身の健康状態を考えて、昨年初めて思い切って原爆で亡くなったおじいちゃんやおばちゃんの慰霊の為に平和公園に行き涙が溢れ止りませんでした。幾人かの方からインタビューを受け体験を話す内、是非体験を話してと言われた人がいて私も今、話して置かなければと思い昨年(平成二四年)八月七日に広島産業会館で行われていた「広島原爆と戦争展」を訪れました。未だ小さかったので当時の事は途切れ途切れの記憶ですが、あれから六八年経った今でも忘れる事の出来ない恐ろしい体験でした。私の実母は広島から山口県小野田に嫁いでいましたが、二人目の子供を産む為に四歳八ヶ月の私を連れて大きなお腹で三篠三丁目の祖父母の実家に里帰りしていて被爆しました。八月六日三篠の家にはおじいちゃん当時六二歳と、おばあちゃんと、次女二〇歳女学生だった三女四女と、母、私がいました。
戦時中は若い男性に赤紙(召集令状)が来たら近所の人達が日章旗を振って送ってあげました。私は小さいのでお祭りの様な気がしていました。母は着物の上に何時も真っ白いエプロンをして人の多い所に出掛け白い布に赤い糸で千人針を縫ってもらうのに私はエプロンの端をしっかり捕まえてついて行ってました。戦争が激しくなり空襲警報のサイレンが何度も不気味に鳴り出すと、防空頭巾を被り庭に深く掘ってある防空壕の中に急いで隠れて暫くすると、たくさんの飛行機が凄い音を立てて飛んで来て何処かでドカンドカンと大きな音が聞こえ、真っ暗な防空壕の中で声も出さず、母にしっかり抱かれていました。近所の人も大勢一緒に入っていた様な気がします。爆撃機が通り過ぎて静かになると空襲解除と叫びながら走って行く人の声が聞こえ外に出る事が出来ました。夜でも空襲警報のサイレンが鳴ると防空壕の中に隠れました。電燈の傘には黒い布を巻き窓ガラスは黒くして有りました。八月六日の朝は、電信電話局に勤めていたおじちゃんを一番に見送り、次に学徒動員に出た二人のお姉ちゃんを見送り、お婆ちゃんも隣の家の大掃除のお手伝いに行ったので、私は玄関前でタライに入りママゴトをしていたのですが二階で布団を干しているおばちゃんとお腹の大きなお母さんが「悦ちゃん上がっておいで、兵隊さんよ。」私は急いで二階に上がって行きました。鉄砲を担いで綺麗に並びパタパタと足音が聞こえる兵隊さんを見えなくなるまで見送り、今でも目を閉じるとあの足音が聞こえ姿が目に浮かびます。兵隊さんが窓から見えなくなったので母の膝に座ったのですがお腹が大きいのでつるりと滑ってしまってその時でした。ドカンと大きな音がしました。何が起きたのか分からないまま、家が大きく揺れて屋根瓦がガラガラ落ち窓ガラスが割れて階段の壁も倒れて足の裏は傷だらけでした。私は母に抱き伏せられていたのでかすり傷で済みましたが、母は舞い上がった畳や割れたガラスで怪我をしました。おばちゃんは布団を二階の屋根に干していたので陽の当たっていた両手に大火傷をして皮膚がペロンとなって白い肉に血が滲んで、母と私は影に居たので火傷はしませんでした。火傷をしたおばちゃんが倒れた壁を支えて私は母に抱かれて滑る様に下まで降りたのですが、履物が無くて裸足で表通りに出た時、トラックに乗せてもらい、途中で黒い雨が降り出したのでトラックから降ろされ民家に入って雨宿りをして、黒い雨で服がベトベトに成ったのを覚えています。民家の人に大きな下駄を貰い黒い雨が上がって逃げた所は太田川の橋を渡った竹薮の中でした。人も草も何もかも皆、真っ赤でした。私もそこで両足に赤チンを柄杓でかけられた事を覚えています。私が大きく成って聞いたのですが、逃げた所は可部の奥だった様です。
二日位そこにいて三篠に帰った時、隣の家にて居たお婆ちゃんが焼けて跡形も無くなった家の前でボーッと一人で立っていました。私の事を忘れて、母とおばちゃんとおばあちゃんが抱き合って泣いていました。寝る所が無いので兵隊さんがテントを建てて毛布を持って来てくれ、夏だから夜は寒くありませんでしたが、食物も無く誰かが持って回る餅箱の中に入れたオムスビと漬物を貰い、水は折れ曲がった水道管の蛇口に口を付けチロチロ出る水を吸いました。私の家は大芝小学校の近く一〇〇メートル位の所ですが、原爆で死んで黒焦げになった人や焼けただれた未だ手が動いている人を戸板の上に乗せて学校の校庭に山積みにして毎日一日中焼いていました。明るい時は煙は黒く、夜になると赤黒い煙がモクモクとあがり口で言い表せない程の悪臭が毎日でした。
四歳八ヶ月で一一月になると五歳になる私の頭の中に焼き付いて消える事の無い出来事の中でそれでも一個のおむすびと漬物だけを美味しく食べました。毎日お土産を持帰ってくれたお祖父ちゃん、ママゴトをして遊んでくれた二人のお姉ちゃんが何日待っても帰って来ません。それから何日も何日も過ぎて戦争に行って負傷して帰って来ていたお父さんが山口から迎えに来てくれました。宮島口駅から汽車が無く、線路ずたいに横川駅まで歩いて来たと聞きましたが人がバタバタと死んでいるのでお母さんも私も駄目だと思っていたそうです。お父さんが持って来た焼酎をおばちゃんの火傷した手に何度も何度も口に含んでプーと吹き付けていたのを覚えています。暫くしておばちゃんも一緒に山口に帰ったのですが、囲いの無いトロッコの様な汽車に乗った記憶があります。頭に火傷したおばあちゃんは帰らぬおじいちゃんと三女、四女を毎日捜して回り、大火傷をしている娘三女を見付けて家に連れて帰り山口に帰っていた母もおばちゃんも直ぐに広島に戻り三女は暫くして髪が抜けだし一一月三〇日に亡くなりました。抜けた髪の毛だけ私は見ました。最近分かった事ですが四女は学徒動員先の小網町で八月六日に亡くなっていた事が九月二八日に西警察署長受付調べのメモがのこって居た事が分かりました、家に二人を並べて、見せてくれませんでしたが寝かされていた事を私は覚えています。私が中学生高校生になっても怖い夢を見たり、夜が嫌いで今でも雷が怖くテレビでも映画でも戦争ものは嫌いです。胎内被曝で産れた五歳年下の妹は原爆の影響かどうか分かりませんが、高校の時、電車通学途中で何度も倒れ高校生活を続ける事が出来ませんでした。
被爆二世になる九歳年下で戦後生まれの弟も五〇歳前後に甲状腺癌になるこれも原爆の影響ではないかと妹と話す事もあります。不思議な不思議な事が有りました。原爆が落ちて帰って来なかったおじいちゃんの遺骨が五〇回忌に間に合うかの様に返って来ました。四九年後の八月一一日平和記念公園内の原爆供養塔に「安置」されていた富田半次郎の遺骨の名前の半ににんべんが付いていて字の間違いから帰る事が出来なかったのですが、他に該当する人がいないのでお宅のおじいちゃんでしょうと言う事で次女に引き渡されました。次女は二階の窓から布団を干していて火傷をしたおばちゃんです。おばちゃんはお父さん(祖父)の遺骨が戻ってきて直ぐに亡くなりました。
戦争は国と国との大きな喧嘩です。友達と仲良くして小さな喧嘩・いじめを無くしていったらきっと大きな喧嘩も無くなる様な気がします。友達を大切にして何時までも親友関係を続けて欲しいと思っています、平和と愛と言う言葉を一番大切にしたいです。
丸い地球が何処の国も皆仲良く手をつなぎ丸い輪をつくり平和の和に成るように祈りましょう。
今日は有難う御座いました。私の体験談が少しでも皆さんの心の中に残れば私は幸せです。
お元気でさようなら。
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