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変わり果てた妻の姿 
谷川 良治(たにかわ よしはる) 
性別 男性  被爆時年齢 25歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2011年 
被爆場所 倉敷航空機㈱(広島市吉島本町[現:広島市中区]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 倉敷航空機㈱ 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私の実家は豊田郡入野村(現在の東広島市河内町入野)にありました。元々は、父、母、兄と私の四人家族でしたが、母は私が幼いときに結核で亡くなり、兄はノモンハン事件で戦死したため、父だけが生き残っていました。

私は、学校を卒業後、東京の海軍航空本部に四年ほど所属し、昭和十六年に西部第七部隊に入隊しました。同年兵は昭和十九年の四月に除隊しましたが、私は軍隊に残されていました。そして、昭和十九年の暮れ、補充の兵隊を輸送するため三十人ほどを率いてフィリピンのマニラに行くことになりました。
 
●結婚して広島へ
フィリピンから帰国し、昭和二十年一月に除隊後、私は結婚をして、妻と二人で上流川町に移り住みました。妻は専業主婦で、私は倉敷航空機に勤めるようになりました。会社は吉島本町にあり、飛行機のオイルポンプを作る仕事をしていました。

昭和二十年八月四日、再び私に召集令状が来たため、妻と二人で不用な荷物を入野村の実家へ持ち帰ることにしました。最寄りの河内駅までは汽車で行き、そこから自宅まで一里(約四キ ロ)ほどの道を妻と二人で荷物を持って歩きました。今ではとても歩く気分にはなりませんが、当時は遠いとは感じませんでした。そして、八月五日の夜に、再び上流川町の自宅に妻と戻りました。今思えば、妻は死ぬために自宅へ戻ったようなものです。
 
●八月六日朝
八月六日、私は軍隊に入隊するため、会社に退職届を書きに行く必要がありました。退職届を書くだけなので、昼過ぎに家を出ても良かったのですが、なぜか、朝早くに家を出て、会社に向かいました。

会社の事務所の中に入りしばらくして、突然、飛行機の爆音がして、ピカッと光り、外にいた人たちが事務所の中へ走り込んできました。次の瞬間ドカンという音がして、私は、空気で体が押さえ付けられるような感じがしました。私の二メートルほど前にいた若い女性は、イスに座ったままで、後ろにひっくり返りました。事務所には十五人ほど人がいましたが、私を含めて皆大きなケガはありません。しかし、何が起きたのか状況がつかめず、とりあえず皆で会社の南にある陸軍飛行場に避難することにしました。

イスから後ろにひっくり返った女性は、ずっと大声で泣いていました。職場の人が「若いのだから背負うてやれ」と言うので、私はその女性を背負い、外に出ました。辺りは、建物の倒壊などの大きな被害はありませんでした。南に向かい、陸軍飛行場に到着しましたが、そこにいても状況は変わらないので、再び会社へ引き返しました。会社に戻り、しばらくすると、徐々に被害の状況が入ってきて、私を含め家族のある人は家に帰ることになりました。もう夕方近くだったと思います。
 
●西練兵場から自宅へ
私は、会社を出て鷹野橋を通り、西練兵場方面に向かいました。鷹野橋を越えると被害は大きくなり、周囲は焼け、誰一人いません。本通りを西に出たところで、私の名前を呼ぶ声が聞こえました。見ると、同じ会社の旋盤工場の指導員が生命保険会社の建物の上り口に座っていました。「わしがここにおることを憲兵隊に知らせてくれ」と言うのです。当時は、各職場から人を集め、四~五人で鉄砲を担ぎ、広島市内を見回る制度があり、私に声を掛けてきた人は、私が勤めていた会社から召集がかかっていたうちの一人でした。ここに来るまで、誰一人見ていなかったので、驚きました。

西練兵場に到着すると、入り口付近で中学生が一人電車の下で死んでおり、また入り口から入ったすぐの所では、着物を着た人が四人ほど倒れていました。さらに入り口から東に十メートルほど行った所では、軍隊の中佐と思われる人が黙ってじっと座っていました。

もともと西練兵場周辺にあったはずの建物や憲兵隊、そして広島城までもが無くなっており、そのときになって初めて、大変なことになったと気がつきました。そしてかなり長い間、私は西練兵場の入り口の辺りに立ち尽くしていました。本来であれば、早く家に帰りたいはずなのですが、これほどひどくやられたら家に帰ってももうだめではないかと思ったのでしょう。

その後、電車通りに出ようとしたのですが、福屋百貨店が大きな音を立てて、激しく燃えていたため、電車通りに出るのは諦め、西練兵場の中を東へ歩き、白島線を越えて、自宅に帰りました。自宅周辺の建物はすべて倒れ、その後の火災で、跡形も無くなっていました。しばらくの間はそこにいましたが、妻の姿も見えないので、泉邸(縮景園)へ行くことにしました。空襲があったときは、泉邸へ逃げるように話をしていたのです。もう夜でしたが、道中の細い道は、靴を通してもまだ熱を感じました。
 
●泉邸にて
泉邸には、私と同じように家が焼けたためか、避難してきている人が大勢いました。妻は見つかりませんでしたが、自宅の二軒隣に住んでいる田中さんの奥さんと会い、「おたくの奥さんは、近所の家に一緒に秤を借りに行ってもらって、家に戻ったばかりで、玄関にいらっしゃったはずですよ」と知らせてくれました。自宅の惨状を見てきたので、玄関にいたのであれば、妻は助かっていないであろうと思いました。

また、田中さんの家でも、十三歳の娘さんが梁の下敷きになったため、奥さんは助け出そうとして、近所の人に手伝ってもらったけれども、火が迫ってきたため結局助けることはできなかったそうです。奥さんは、一晩中泉邸の中を駆け回りながら、「フサコ、フサコ」と娘さんの名前を呼び続けていました。
 
●変わり果てた妻の姿
夜明けに、私は半ば諦めながらも、自宅に戻りました。自宅の焼け跡で、すぐに妻の頭と手が骨になっているのを発見しました。白骨になった妻の頭を拾い、ふろしきで包み、入野村の実家まで持ち帰りました。この事は、今でも涙なしには語れません。当時妻はまだ二十歳で、結婚して八か月目でした。

被爆のため、山陽本線はまだ広島駅まで開通しておらず、海田市駅で折り返し運転していました。海田市駅に到着すると、ちょうど出発直前の汽車が来ていたのでその汽車に乗り込み、河内駅まで行きました。八月四日に妻と二人で帰った道を、この日は一人で、風呂敷に入れた妻の遺骨を携えて……

実家に帰ると、それまでほとんど寝ていなかったこともあり、二日ほど寝込みました。そして、三日目に妻の葬式を行いました。
 
●消えた定期入れ
八月十一日頃、私は会社の状況が気になったので、広島に行きました。会社に行く途中、竹屋町に住む叔母といとこの様子が気になり、立ち寄ってみると、叔母の家を含め周囲の家は木造家屋のためすっかり焼けており、何もありませんでした。そのときは、叔母に会うことはできませんでしたが、その後、無事であったことが分かりました。

そして、南大橋にさしかかると、橋の中央より少し西側寄りに、小学校にまだ上がる前くらいの少女と、今にも命が絶えそうな母親がいました。気の毒だなと思い見ていると、母親が「水が飲みたい」と言ったのでしょうか、少女が橋のたもとにある船だまりに続く石段を下りていき、水をくんで、「お母さん、飲んで」と言って、水を飲ませていました。私は、母親から話を聞いて、その内容を書いてあげたいと思いましたが、紙も何も持っていなかったため、かわいそうにと思いながらもただ見守ることしかできませんでした。

会社に到着すると、「お前は死んだことになっている」と言われたのです。理由を聞くと、ある橋のたもとに立札が立っており、その立札には、「右の者の遺骨を取りに来られたし。大国部隊本部」と書いてあり、私の名前と住所があったとのことでした。大国部隊本部に行くと、見習士官が封筒を渡してきました。自分は生きているのにと思いながら封筒を開けると、中には遺骨と私の定期入れがありました。その定期入れは、フィリピンのマニラで購入したもので、八月六日に会社に置いたままにしていた背広の中に入れていたものでした。見習士官にどこで遺骨を収容したのかを尋ねると、吉島の飛行場の土手で収容したと言うので、私の背広を着ていた人がそこで死んだため、私が死んだことになっていたのだと理解できました。
 
●戦争体験を振り返って
被爆後、私は再婚をし、子どもを授かりました。そして今、被爆から六十六年が経過し、私も九十一歳になりました。これまで、病院に行くことはよくありましたが、幸いにも被爆が原因による大きな病気はしていません。

しかし、泉邸で娘さんを思い名前を呼び続けていた田中さんの奥さんやその家族、南大橋で見掛けた母親と少女など、今でも時々思い出すことがあります。特に、当時田中さんは県立広島第二中学校の先生をしており、息子さんも同中学校の二年生だったのですが、被爆当日、同校の教員及び生徒は動員中であり、その多くが亡くなったと聞いています。安否が気がかりでなりません。

私は、アメリカとの関係を重視する政策を取るのはいかがなものかと思います。アメリカが落とした原爆により、妻を含め罪の無い多くの市民が犠牲になったのですから。

二度と戦争があってはならないし、私のような体験を二度としない方がいいと思います。今も亡き妻のことを思い出すと、涙があふれてきます。 

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