美空ひばりさんの歌のように私も一本の鉛筆があったら八月六日の朝と書きたくなる。被爆されなかった松山善三さんすらこのような作詞をされるわけですから、生々しい惨状を目のあたりにした私にとって古希を迎えた今も尚昭和二〇年八月六日の暑い夏の朝の模様が強烈に蘇って来る。幸、爆心から三粁弱離れた翠町の友人宅で然も用便中の狭い便所の中で、明窓からの閃光と熱風に突嗟に両手で頭を覆い無傷で外に出たが、家の中はガラス片の散乱。友人、母、子の血だらけで倒ている姿。近隣の阿鼻叫喚を耳にしたが家屋の倒壊は免がれる事が出来た。
唯一人無傷であった為、家人の要請もあって友人の父親の経営する病院の様子を調べに市中に向ったが、途中御幸橋附近で風下から風上の宇品方面に逃げて来る大集団の中にこの世の人間とも思えない無惨な姿の学友を見付けたが、励ます言葉を失った程で、大変な事態が生じた事を直感した。千田町から小町えと向ったが、市中の倒壊家屋の到る処から火災が発生し遂に目的地迄は行けず引返す事になった。途中、新型爆弾だとか、空中魚雷だとか、様々の噂を耳にしたが、これが原子爆弾というものと初めて知らされたのは長崎に投下された翌日の事だったと思う。
市街地の火炎で赤く染った夜空の下、畠の中で一夜を過し翌七日の午后四時頃やっと焦土と化した市街地に友人、母子と三人で向かったが途中無数の黒焦げ死体やかすかな呻き声で水を求める男女の悲惨な臨終の姿を見て、生地獄とはこの様なものかと思った。友人の父親も上半身は焼けて骨となっていたが下半身は壁土に覆われて焼けていなかったので近辺で焼残った木片を拾い集めて焼いてあげた。私の家族は強制疎開で佐伯郡の玖島村に一週間前に疎開して難を免がれたが、妹が女学院専門部に通学しており、たまたま六日は登校日である事を知っていたので再び小町から幟町白島方面えと探して歩き廻り、日没前ににぎつ神社の境内の松の根本に上衣を血に染め、ものも云えない妹を見付け、東練兵場で大勢の負傷者の呻き声の中で眠れない夜を明かし三日をかけて疎開先まで妹を連れて帰った。十年后になって妹は最后のガラス片を腕から摘出したが、今尚幸いにも健在でいる。
恐らく生涯で最大の思い出したくない忌わしい記憶と思う。現在当時の数百倍の威力のものが核保有国に保持されていると聞くが、この様なものが使用されては一瞬に人類の破滅を招く事は必定。核の脅威から世界が開放されることを熱望して止まない。
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