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被爆について思うこと 
炭谷 良夫(すみたに よしお) 
性別 男性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島市翠町[現:広島市南区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆が投下されて六〇年の才月が流れたが、あの悲惨な光景は脳裏に深く刻み込まれて忘れ去ることはない。

私は当時獣医学部の学生で東京で下宿生活を送っていたが本土決戦も間近かとの噂も流れ、親兄弟に別れを告げるべく広島県佐伯郡玖島村の家族の疎開先に帰省し、八月五日は家族と別れ帰京すべく広島市翠町の友人宅に一泊した。その翌日起床後間もなく、便所の中で被爆。幸にも私は無傷であったが友人とその母親はガラス片等で悲鳴とともに血まみれとなっていた。 

友人の要請で直ちに友人父の経営する産婦人科病院に急いだがその途中、御幸橋で風上の宇品方面に避難する夥しい人々の隊列に出遭った。人々の凡てが衣服はボロボロ、その下から焼けた皮膚が垂れ下り苦痛に喘ぐ姿は眼を蔽うばかり励ます言葉も出なかったが、その中に広島の二中の同級生を見付け思わず「頑張れ」と叫んだ事が今でも忘れられない。それから電車道を千田町から鷹野橋、市役所前と向かったが僅か先方の小町えは火焔で行く事が出来ず止むなく引返えさざるを得なかった。 

引返す途中倒壊した家屋の梁の下敷になっていた老婆から助けを求められ、附近にいた二、三人の人達と素手で助けようと試みたが小人数の力では如何ともし難く、その内に火焔が私達に押し寄せて来た為、老婆に両手で拝みその場を離れたが後髪を引張られる様な想いは今でも消えない。

翌日昨日通った同じ順路を通って友人の父を探しに友人と母親とともに行ったが、真黒に焼け無数の死体や市電の残骸等々、中には息もありかすかに水を求めていた人々もいたがなす術もなく只々無能を嘆くのみであった。友人の父親も院長室の梁の下敷になって上半身は焼けていたが、下半身は残っていたのでその場で荼毘にした。これが正に地獄絵図とも云うのでせうか。悲惨な光景は一生脳裏から離れることはないと思っている。

戦後でも福竜丸事件、チェルノブイリ事件等放射能により数多くの人命を奪れ環境が破壊されて来た。世界から核廃絶の声は高いが核兵器所持に狂奔する国家も今尚存在する。核の脅威から解放された真の世界平和が来ることを希求して止まない。
  

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