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被爆体験について 
柴田 政一(しばた まさいち) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 第2総軍第16方面軍海上挺進第38戦隊(睦第19853部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
戦後五〇年の節目色々な行事で談話、論文が発表されている中で侵略戦争云々には常に怒りを覚える。

我々は学徒動員で祖先の地を守るために出陣したのである。

暁部隊に入隊し幸の浦で訓練を受け外出時に広島市内で見たものは国民が一丸となっていることである。女子学生が市内電車の運転。日の丸の鉢巻姿の生活である。

我々も一七才の青春に紅の血を燃し乍ら特攻三八戦隊となったのである。

外泊を終え帰隊途中に広島新型爆弾を聞き七日早朝海田市駅下車。徒歩で市内に入る。
・爆風で屋根の瓦が直立になっている。
・防火用水に子を背負った親子が死んでいる。
・庭先に大きな牛が鼻輪でむすばれたまま死体となっている。

新型爆弾の威力を身もって感じた。

爆心地に近くなり暁部隊の協力要請で援護活動に入る。

焦土と化した地面は熱く煙はもうもうと立ちこめるなか無数の死傷者。皮膚の焼けた少年が兵隊さん水水水をといって足首をつかんだとき階級も兵隊さんも捨てたかった。

国民を守ることの出来ない兵隊さんであった。

市内電車を運転していた女子学生は乗客とともに焼け死んでいる姿は今も消えない。

終戦になり学校へ再び学び富山県庁に勤めたが出張や個人的旅行でも九州方面へ行ったが広島だけは行かなかった。

定年になり六二年に広島へ行き更に平成七年六月にも行ったが復興振りより繁栄しているのに驚いた。でも戦争だけは絶対してはいけない。

又、今更謝罪外交もおかしい。村山総理は何をして来たか。
  

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