昭和二〇年二月、お国のためにと志願した私は特別幹部候補生として香川県の小豆島の若潮部隊へ入隊した。満一五才になったばかり、そして六月下旬特攻訓練基地幸の浦に転属した。幸の浦は海軍兵学校と背中合わせで宇品港(広島市)から八キロメートルの南方に位置し海上正面から広島市が見える。幸の浦で私達は海上挺進隊として特攻艇マルレによる突入訓練に昼夜訓練した。原爆が投下された八月六日は快晴だった。八時すぎ警戒警報そして空襲警報まもなく解除。風雲急を告げるなどという感もなく静かな朝だった。私達は朝の日課をすませ次の訓練までの間前方の広島市街地の方へと目をやった。とたんピカッーとマグネシューム色の明るさを一瞬時閃光した。途端轟音一発そしてものすごい爆風。口を閉じて目と耳をふさいで砂浜に身をふせた顔にすさまじい熱さを感じた。さえぎるもののない広島市の上空に巨大な雲がモクモクと吹き上げ綿菓子のように広がってゆく。唯呆然と眺めているだけ。 間もなく部隊命令が通達され広島市全滅直ちに救援に出動すべし、状況によっては一週間いや一〇日間も帰隊出来ないかもしれないということで乾パンや干魚等が渡され雑のうに押しこんで大発艇に乗って宇品港へと向った。
広島市に足を踏み入れた瞬間異様な光景に息をのみ恐怖に身ぶるいした。市中の灼熱地獄から逃れてきた被爆者の人たちである。皮膚は焼けただれ衣服はボロボロ、まるで幽鬼のような姿でヨタヨタ歩いてくる。爆心地に近ずくにつれ惨状は酸鼻を究める。
黒こげの死体、どす黒く火ぶくれて目も見えず口もきけずのた打つ人々。消火する人とてなく焼けくすぶる火、まさに地獄だ。
「兵隊さん水、水を下さい」若い女性のうめく声がきこえた。暗がりをすかしてみると女子学生の挺身隊なのだろうか同じモンペ姿の一団があちらこちらに折重っている。すでに大半こと切れている。遺体を火葬も出来ず埋葬も出来ず校庭の運動場に何百と並べた。夜間になって一人一時間あて屍衛兵に立った。私はこの地獄の中にしばらく身を置くうちに最初に覚えた恐怖の感覚がだんだん薄らいでゆくのに気がついた。そうでなければ屍体の収容などの作業は出来ないのだろうが戦場の異常心理と言うか、人間性の麻痺というか。八日頃から屍体が腐敗し始め口からはウジが湧き始め手のほどこす出来ない状態となってもその屍体をさわった素手で平気でたべものを口に入れる。異臭が強くなったのでタオルでマスクして火葬の作業を始めた。火葬は地面を一メートル五〇センチ程深く掘り底を平たにしてそこに焼け跡から集めてきた廃材を敷きその上に屍体をならべその上に燃えやすい板切れやボロ布などおいて重油をかけては荼毘に付した。火葬後は作業員全員で鎮魂の黙とうを捧げた。
相生橋附近には満潮になると屍体が集まり水ぶくれの屍体は重く引き上げるに苦労した。八月一一日休養のため一晩だけ幸の浦への帰営を許された。我が隊は宇品港へと急いだ。幸の浦へ帰って広島に投下されたのは新型爆弾であり九日には長崎にも投下されたことソ連の対日参戦を知った。そして八月一五日この日も朝から快晴だった。作業に出発する前に今日のお昼に重大放送があるときいていた。まだまだ書きたい事は山程あるが広島に投下された原爆の凄惨な光景を目撃している私はあの無差別、大量殺戮、人間の破壊の爆弾は非人道兵器であり、その使用は国際法違反であることに疑いの余地はない。
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