原爆が投下された時、父は広島市中区平野町付近を自転車を走行中に原爆をうけました。瞬時、ピカッーと閃光が走ったかと思うと、ドドドーンと不気味な地響きがし死の深淵に投げこまれたのです。その時の爆風で一枚の大きなトタン屋根が飛来して、自分の身体を覆うように直射閃光を遮ったのです。
生前の父は「もし、一枚のトタン屋根が飛来し自分の身体を覆わなかったならば、直接閃光を全身に浴びてその場か数日後には命つきていたであろう」と生と死は紙一重であったことを幾度となく聞かされました。
その後父は私たちの安否をきづかい縮景園界隈でお互いの顔を見あわせたそうです。
母から見たその時の父の容貌はむくみ、皮膚はただれ衣服はボロボロであまりの異様さに本人かどうか確認できにくかったそうです。その後、廃墟となったヒロシマを後にし、とりあえず縁者をたより田舎へと疎開しました。当時は物資欠乏の日々、私たちを抱え生きることへの執念を燃やし、ひと口には言えないほど粉骨砕身の明け暮れだったそうです。毎年、夏の季節となると、口癖のように「頭が重い・体がしんどい・だるい」とかを言っては時には体を横たえてもいました。あまり弱音を吐かないだけに体調の悪い日は余程辛かったのだと思いました。
思い起こせば父は直爆被爆であり原爆後遺症は消えることなく生息し続けたのだと思いました。時代の進展は著しく、医学も高度に飛躍しましたが、未だもって原爆症の治療薬は無いに等しく、原爆後遺症を死ぬまで背負い続けたのです。仮りにも原爆が投下されていなかったら、正常の健康体であり原爆症という厄介で余分な苦労はなかったのです。ありし日の父を思いだすたびに、原爆への憤りを感じてやみません。
吉村 昭 五十七歳
追記
物質的繁栄に埋没しながら、二十一世紀の時代を歩んでいる私たち。二十世紀に生じた人類史上初となったヒロシマ原爆の犠牲と惨状は時代の進展に伴って、しだいと風化してゆく現状です。化学戦争で人類破滅の武器ともなる核兵器の存在は恐怖を覚えざるをえません。世界数国にはヒロシマ型原爆の数十倍とも言われる威力の核兵器が現存していると言われています。二度と繰り返してはならぬためにも、一日も早く世界から全面的核兵器廃絶を願わずにはいられません。
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