五十路坂を歩んでいる私にとって、ヒロシマ原爆は終生忘れられない存在です。
昭和二十年八月六日午前八時十五分、ヒロシマ市民にとっては運命というべき人類史上初の原爆投下がされたのです。毎年、原爆の日が近づくにつれ当時の惨状を母から聞かされました。原爆投下と同時に母と私(生後十一ケ月)は爆心地から一・五キロメートルの場所旧名(上柳町三十番地)で屋内被爆しました。瞬時にして家屋は崩壊し、母と私は下敷となり、まだゴソゴソと這う私は大きな柱の間に挟まって身動き出来ぬ状態のままでした。しだいと迫ってくる火炎に危機感を感じた母は阿鼻叫喚となり声を大にして助けを叫び続けました。人間誰しもが生と死の窮地に落ちれば本能的に我が身が大事であり、他人の命乞いなど耳に入らず逃げまどうのも当然の理といえましょう。もう一命も終りだという時に救いの手がさしのべられたのです。後から聞くとその手は隣組の人でした。被爆後、生きる年月のなかにあって、被爆者にとっては健全な肉体と精神の持続は何にも優る、かけがえのない大きな財産です。日々平凡な生活の営みに健康を保ちながら現在ある身も、ふりかえって考えれば命の恩人の御陰があればこそ、と自問しています。毎年、原爆の日を迎えるにいつも脳裏に浮かんでくることは、「命の恩人となる人」です。せめて御礼を申さねばの一念ですが、その後消息不明であり心残りでもあるのです。毎年、運命の時刻(八時十五分)には恩人に対し心底深く感謝し合掌する私です。
|