家の座が落ち、瓦が落ち、柱に畳に無数の硝子の破片が突きささり、土足で上る。くづれかかった家の中で、この世の人とも思えない半死半生の、全身火傷の母に会えたのは三日も経った八月九日であった。
これが火傷か??・・・・。火傷という常識を遥かに越えた母の顔、母の体。ぎょっとしたが、生きてくれていたんだ。助かったんだ。生きていてくれさえすれば良いんだという気持に打消され、途端に疲れが出、のどがかわいて母の側に倒れる様に坐り込んだ。
それにしても子供の頃から育まれ、色々な思い出のある住み馴れた素晴しい街は一瞬にして消滅し、この真夏の頃には市内を流れるどの河も水泳を楽しむ子供達であふれた、あのきれいな河には達磨の様に丸くふくれ上った死体が無数に浮き、道路脇の防空壕には死体が次々投げこまれ、炎の為一瞬立止らざるを得ず、その異臭は何と表現したら良いのだろう。
殺気立ってトラックで走りまわる兵隊、救護活動に忙しい人達に混って、恐らく行方のわからない我が子、我が親を求めてであろう、破れた衣服をまとい、焼跡の瓦礫を力のぬけた手で掘りおこし、防火用水槽を覗き込むいたいたしい姿。地獄どころではない、もっとひどい、もっとこの悲惨な光景を伝えるぴったりの表現はないのか・・・・・・。
母が、かぼそい声で思い出した様に「元気か」「よかった」等と話しかけてくれるが、何となく嫌な予感を禁じ得なかった。
翌日は話すことが支離滅裂となり、医者に診て貰うことも出来ず不安の念はつのる一方であったが、やはり死への道を急に急ぐことになり、五日目の一一日にとうとう息を引取った。
「原爆」という様なものが許されて良いのか!!
火葬場に運んで・・・・・・というまともな弔い等出来る筈もなく、学校の校庭迄担架で運んだが、すぐ荼毘にふすことも出来ず一晩校庭に置き(まさに放置といわざるを得なかったが)、翌日どうにか冥福を祈りつつ見送った。
「お母さん!申訳ありません。こらえて下さい。」
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