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被爆体験について 
渡部 美津江(わたなべ みつえ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 高等女学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私達女学校の三年生は何班かに分れ救護に向い、広島駅から歩いて銀山町の広銀に集り、トラックで各救護所に分れて行き私は大河小学校に。窓と云う窓は跡形もなく、廊下には粉々になったガラスが何糎も積って歩くとメリメリと音がします。その上に死体がいくつかそのままに置かれ、異様な光景でした。

各教室にゴザ丈敷いた上に、多くの人が死んだ様に横たわっていました。各班に分れ、それぞれの仕事につきました。私はおにぎりを配ったり、校庭でドラム缶に熱湯を湧かしたくさんの汚れた包帯等を洗って乾したり、一階の教室で外部から来た人達に先生も居られた様に思うのですが、只赤チンをぬる丈の事を手伝っていました。薬らしい物は何もなかったように思います。毎日何人かの人が亡くなり、廊下に置かれ夜には校庭の砂場で火葬にされると聞きました。七才位の女の子が無傷のまま安らかな顔で亡くなり、お母さんが泣き乍らきれいにお化粧をされ私達もお別れをしました。

五十才代の女の人が十円玉位の丸い紫斑が体中に出て、もの云わぬままに亡くなり、又両足のすねに大きな深い傷に白いうじ虫がたくさん喰いこんでいて、“二部隊”の兵隊さんが、一生けん命ピンセットでつまんでも仲々取れず、「助けて。殺して。」とくり返し叫んでいた男の人も忘れられない事の一つです。私達と同年位の“一中”の生徒さんが頭の上に教科書を置いたまま何日かして亡くなり、悲しかった事等断片的にしか思い出せませんが、胸に深く残っています。

夜、校庭の砂場から上る白い煙を見ながら、友達と教室の真中で、ひざをかかえて黙って見ていました。義母も学徒動員の妹を探し歩き、川べりで友達のお父さんと遺体を服のきれはしで見つけ、その場でお骨にして帰ったそうで、一四才でした。

母はその後下痢がつづき頭髪が抜け、今は再性不良貧血で入院中で余り娘の事は話す事はありませんが、八月六日にはポロポロ涙をこぼします。

あれから五十年。甲状線腫、閉塞性血行障害とか年に何度か体調をくずしてね込む事が多くなりましたが、二度と体験したくない思出でで、心から平和を願っています。

 

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