●被爆前の生活
当時、私は修道中学校一年生で、祖父母や母と広島市皆実町三丁目に住んでいました。
戦時中のため、動員により農家の手伝いや広島市郊外の矢賀に軍需品を入れるためのトンネルを掘りに行っていました。また白神社の隣にある国泰寺周辺や市役所裏の雑魚場町などへ建物疎開の後片付けに動員され、勉強はあまりしませんでした。
建物疎開とは、空襲により火災が類焼しないようにするために、あらかじめ建物を取り壊して、大きな道路を作る作業のことです。
そのころ、修道中学校の一、二年生は、夏休みでしたが休みを返上して、雑魚場町へ建物疎開の後片付けに動員されていました。ちょうど八月六日は一年生が休み、八月七日が二年生の休日になっていました。
私は原爆が投下される前日まで、雑魚場町に行っていましたが、一年生の私は家にいて助かり、二年生の大半は原爆で亡くなりました。
●八月六日
その日の朝、私は久しぶりの休みなので、自宅で勉強していました。
家の前で、祖母が近所の人と「空から何か落ちている」と話している声が聞こえてきました。私も見たいと思い、玄関へ行くと履物がありません。台所へ行っても履物がなく、庭へ回って履物を履き、台所を通って外へ出ようとした時です。ピカッと背中に赤い光を感じました。その瞬間、ガタガタと上の方から壁土や瓦の破片のようなものが落ちてきて、しばらく真っ暗な状態でした。
周囲がやっと明るくなった頃、近くで「助けて、助けてくれ」と言う祖母の声が聞こえてきました。私はその声を頼りに祖母の元へ行くと、祖母はあおむけに倒れています。昔の人はよく前掛けをしていたのですが、祖母の顔には前掛けが被さり、その上に崩れた壁土や瓦の破片が落ちていました。
祖母は原爆が投下される直前まで外にいましたが、何か危険を感じて家に入ろうと小路に一歩入ったところで被爆し、爆風で四~五メートル飛ばされたらしいのです。幸い家の影でしたので、やけどはしませんでした。
祖父は夏の暑さのため、パンツ一枚で横になって休んでいました。爆風で家のガラスが壊れ、祖父は体中にガラスの破片が刺さり、切り傷を負いました。
私は少し前まで、道路に面した部屋で勉強していました。前はガラス戸でしたから、そのまま勉強していれば、全身にガラスの破片が刺さっていたか、それ以上のけがを負っていたかもしれません。また玄関に履物があれば、やけどを負っていたでしょう。偶然が重なり、私は膝に小さな切り傷を負っただけで済みました。しかし、通常なら一週間ぐらいで治るはずの傷が、大きく腫れて、完治するまでに約三週間もかかりました。それが放射能の影響かどうかは分かりません。
母は広島地方専売局の勤務先で被爆し、ちょうど煙突の陰にいて、けがはしませんでした。母は、しばらくして自宅に帰ってきました。
自宅の建物は、壁は一部崩れ、屋根瓦も一部飛んでいき、夜、寝ていて星がきれいだったのを憶えています。
それから、しばらくすると皆実町の自宅から市内中心部の火災が見えました。火災が、こちらへ迫って来るように見えます。市内中心部からの火災が、川をはさんだこちら側に移りそうなので、祖母を連れて翠町方面の畑へ避難することにしました。
私は祖母と避難する途中、全身にやけどを負った皆実国民学校時代の同級生であった宇津木君に出会いました。宇津木君はやけどにより人相が変わっていましたが、全体の雰囲気から宇津木君ではないかと思い、声をかけました。
宇津木君はお母さんに背負われて、宇品の病院に向かっている途中でした。私は宇津木君のお母さんの疲労しておられる様子に、祖母のことが気になりましたが、祖母には「そのまま、私が戻って来るまで、そこにいるように」と言い残し、宇津木君のお母さんに代わって宇津木君を背負い、現在の県立広島病院がある宇品の広島陸軍共済病院に行きました。私に背負われた宇津木君は「お母ちゃん痛いよ、痛いよ」と病院へ着くまで言い続けていました。
病院に着くと、そこは重症者であふれ、「水をくれ、水を」と悲痛な声でいっぱいでした。やけどを負った人が大半で、地獄のような状況でした。
私は祖母を待たせているのが気になったため、しばらくして帰りましたが、宇津木君は次の日に亡くなったそうです。
●宇津木君の妹さんからの手紙
私は当時のことを確かめたいと思って、宇津木君の妹さんに当時の状況を聞くと、妹さんから説明を添えた手紙が来ました。
兄の宇津木祐三は、当日、建物疎開の解体作業のため、雑魚場町の現場へ向かいました。中学一年生全員が整列し、作業開始の号令の元、上着を脱いだ瞬間、閃光を受けました。帽子とゲートルだけが残り、顔は水膨れ、上半身の皮膚は下に垂れ下がり、ズボンはズタズタに破れた姿で、皆実町の自宅まで帰ってきました。必死で帰ってきた姿に涙する間もなく、母親は兄を背負って、とにかく広島陸軍共済病院へ行くことにしました。
途中、皆実町と翠町との境くらいの所で「宇津木君ですか?」と小学校時代の同級生と名乗る加良君に呼び止められました。「僕もおぶって上げます」と言われた時、母は彼が「天使」に見えたそうです。崩れそうな傷ついた人を背負って、およそ半里の道を行くことがどんなものか!
病院に着いて寝かせつけ、水を飲む力がないので、水で溶いた「はったい粉」をガーゼに包み、唇の上にのせました。その後、「僕はこれで」と彼は帰って行きました。
兄は次の七日に亡くなりました。その後、加良君とは約八年間、音信不通でしたが、母親はその間、感謝の気持ちを毎年原爆の日に周りの者に語っていました。
宇津木君の妹さんの手紙によると、宇津木君とは学校は違っていましたが、たまたま同じ雑魚場町へ建物疎開の後片付けに動員されていたのです。
宇津木君はそこで被爆し、私たち修道中学校一年生は、幸運にも当日が休日だったため、私は軽傷で済み、病院へ行く途中に私がいくらか、お手伝いしたような形になりました。
●八月七日
被災したら学校へ集まるようにと以前から話がありましたので、翌七日に学校へ行きました。
学校に向かう途中、御幸橋を通ると、橋の上にはズラリと負傷した人や既に息の絶えている多くの被災者が横たわっていました。大半がやけどで、皮膚が垂れ下がっています。そこへ陸軍のトラックが来て、死亡した人を収容していました。死亡した人だけならいいのですが、もう助からないだろうと思われる重傷者も生きていることが分かっていながら、死体と一緒にトラックの中に投げ込んでいました。病院でもそうでしたが、橋の上でも「水をくれ、水をくれ」と多くの人が水を求めていました。
当時、やけどした人には水を飲ませてはいけないと言われていたので、積極的に水をあげる人は少なかったのではないかと思います。いずれ亡くなるのなら、水をあげれば良かったという思いが残った人もいるでしょうが、当時はわかりませんでした。
修道中学校に行くと、ほとんどの校舎が倒れていました。学校は、夏休みが終わった九月の初めから始まりました。
●いとこの死
私は、原爆で二人のいとこを失いました。
県立広島商業学校に通っていたいとこは、当日、十日市町の方へ建物疎開の片付けに行っていました。彼は大須賀町に住んでいましたが、動員先に近かったからでしょうか、どういうわけか私の家から通っていました。
二、三日たっても彼が帰ってこないので、祖父と一緒に市内へ捜しに行きましたが、現在でも消息は分かりません。
また彼の弟にあたる小学生の三男君は、夏休みのため、当日は釣りに行っていました。いとこの両親は被爆直後、二葉の里の方へ避難していましたが、そこに三男君が「お父ちゃん」と言って、捜して来たらしいのです。三男君の顔は、被爆によって両親が見ても我が子だと分からないぐらいに変わっていました。
三男君はその晩、亡くなりました。
●友人、近藤幸四郎君に聞いた話
被団協の事務局長をしていた近藤君とは小学校、中学校、高等学校の同級生でした。彼は数年前に亡くなりましたが、彼から聞いた近所の友人の話です。
当時は、町内会から順番に建物疎開へ動員されていました。
八月六日の朝、友人が親の代わりに作業へ参加することになっていました。しかし友人は気分が優れず、「作業を休みたい」と親に言いましたが、友人のお母さんは休むことを許しませんでした。友人は停留場まで行きましたが、行きたくないとすぐに帰ってきました。それをまた追い返すように行かせて、友人は原爆死してしまいました。
友人のお母さんは、「休みたい」と言った子どもを無理に行かせ、死なせたことに責任を感じ、その後、心労のため亡くなったということです。
●友人、岡田昌昭君の被爆体験
岡田君とは中学校、高等学校の同級生で、山登りの仲間でした。彼も自宅で被爆しており、彼から聞いた被爆体験です。
当時、父は軍の関係で駿河の軍用船に乗っていましたので、広島市吉島羽衣町の自宅には、母と姉(広島市立高等女学校三年生十六歳)、私(岡田昌昭・修道中学校一年生十三歳)、下の弟(六歳)の四人で住んでいました。
当日は、姉と私は休みで家にいました。その時B29の爆音が聞こえたのです。私は幼少のころから飛行機が好きでしたので、近くで見ようと二階の物干し台に駆け上がりました。腕をかざして空を見上げた途端、まともに閃光を浴び、爆風で飛ばされて階下に落ちてしまいました。どこかで頭をぶつけて血を流して倒れている私を見て、縁側にいた姉は、ふろしきで私の頭を縛り、止血してくれました。
母は台所にいて、割れたガラス片が体中に刺さり、けがをしていました。
母と私、姉と下の弟が別々に似島の救護所に運ばれました。現在の北広島町の伯父が捜してくれるまで、それぞれの存在は分かりませんでした。
似島に着いて何日間かは、食事も一人分がジャガイモかトマトのどちらか一つだけという中で、母は自分の分を私に食べさせてくれました。
救護所では、軍人が助からないと思う人に、安楽死させるための注射を打っていました。私がけがの痛みで大声を出すので、軍人が私にも注射を打とうとしましたが、母は必死にさせまいと、かばってくれました。
十日目ぐらいに、北広島町の伯父が私たちを見つけてくれました。四人はトラックに乗せられ、伯父の家に身を寄せました。伯父の家では、母も全身をけがして動けず、伯母が昼夜つきっきりで看病してくれました。
私の顔や手は、ただれて皮がむけ、じかに布団に置くことができず、手枕をしていました。三、四日すると頭がかゆくなり、伯母が私の頭をピンセットでかいてくれました。すると、かさぶたが剥がれて血とウジ虫が噴き出しました。「これではもう助かるまい、棺桶の用意を」と周りが話しているのを聞き、私が「わしは死なんぞ!」と大声で叫んだのを、上の弟は今もはっきり覚えているそうです。
九月頃、修道中学校の担任の先生が来られ、退学の手続の話をされましたが、私は「絶対に治って、学校に戻るから」と聞きませんでした。
それからは、食べ過ぎと周りが思うほどの食欲ぶりで、無茶な運動をしては体力をつけるなど、必死の努力で驚くほどの回復を見せ、十月には復学を果たしました。あれほど生死の境をさまよっていたのに、「絶対に死なない。絶対に学校に行く」という不屈の精神力が奇跡の回復につながったのだろうと思います。
●八月十五日 終戦の日
天皇陛下のお言葉がラジオで放送されるというので、近所の町内会長の家に皆が集まり、ラジオを聞きました。
ラジオの雑音がひどく、話が聞き取りにくかったので、その時は天皇陛下が「皆、がんばれ」と国民を勇気づけるお言葉を言われたということで解散しました。しかし、その後しばらくして、日本が戦争に負けたことを聞きました。
大人たちは戦争に負けたという事実に大変悔しがっていましたが、私はなぜかうれしくて、ホッとしました。本来なら、戦争に負けたら腹が立ちます。残念だとか、情けないという気持ちになるでしょう。しかし、戦争が終わりに近づくころには、空襲がしょっちゅうありました。警戒警報の時はいいのですが、空襲警報の時には防空壕へ入らないといけないのです。町内にも防空壕を作っていましたし、自分の家にも床の下に穴を掘っていました。また広島駅の裏が東練兵場になっていました。当時は練兵場の一部が畑になっていて、学校から手伝いに行きましたが、その時、敵機グラマンの機銃掃射を受けました。そして八月六日、原爆の恐ろしさを知ったのです。
それまでは空襲警報が鳴っても、どうせ落としはしないだろうと防空壕に入りませんでしたが、原爆が投下された後は空襲警報が鳴ると、必ず防空壕に入りました。
戦争が恐ろしい、悲惨なものだということを特に原爆を通して知りましたので、戦争に負けても終わったことがうれしかったのです。
●被爆後の健康状況
私は、膝が腫れて完治するまでに三週間前後かかりましたが、その後は特別、病気はしませんでした。しかし現在は、糖尿病とC型肝炎を患っています。
なぜC型肝炎になったのか、私の記憶にはありませんが、四十五、六年前に胃潰瘍の手術をしました。その手術の際に使用した輸血の時なのか、その後の予防注射の時なのかは、分かりません。今は注射をしたら、すべて使い捨てですが、昔はアルコールで拭くぐらいで、注射針をそのまま使っていました。
C型肝炎に感染してから肝硬変に移行するまでには二十年程度かかると言われています。おそらく、その期間は過ぎたと思いますが、不安はあります。あまり深く考えないで、毎日を過ごしています。
●現在の思い
私には二人の娘がいますが、現在それぞれ結婚しています。その下の娘が、貧血気味なのです。私自身は時々、被爆者健康診断を受けていますが、白血球や赤血球の数値が少ないと、たびたび検査で指摘されます。その血を継いでいるのではないかと心配しているのです。まだ被爆二世の検診は受けていませんが、遺伝していなければいいと思っています。
私自身は既に七十四歳ですから、そんなに将来のことは心配していません。糖尿病とC型肝炎があるので、そこそこ食事等に気を付けて、軽い山登りや好きなカメラが続けられればいいと思っています。
現在は、作品といえるような写真を撮りたいと思い、天気が良い日には郊外に出かけています。
毎月、中国新聞では読者の写真コンテストがあり、気に入った写真が撮れた時には応募しています。
先日(平成十八年十一月)、平和大通りの黄葉した大イチョウの樹の下で仲良く遊ぶ親子の写真が幸運にも特選になりました。
親が子どもを虐待するニュースが多い時代に「心温まる、いい写真だ」と読者から反響があったそうです。
●戦争を知らない世代へのメッセージ
戦争というのは、有史前から繰り返し行われています。終戦後にしても、世界のどこかで戦争が起こり、絶えたことはありません。
食料の奪い合い、部族間の問題、あるいは宗教問題などがあるでしょう。どんな宗教でも「人を殺せ」とは教えていないと思うのです。それが自分の宗派のために平気で人を殺しています。自分のこと、あるいは自国のことばかり考えるから争いになるのです。
この間、平和記念公園で修学旅行に来た小学生に「戦争をなくすには、どうしたらいいですか」と意見を求められました。
私は、戦争は人類がいる限り、なくならないと思っています。ですが最低限、原爆や水爆を使用して大量に殺戮するような戦争は、なくして欲しいのです。
しかし、どうしたらいいのか、うまく答えを出せません。
いつも思うわけではありませんが、世界中が一つの言葉なら、もっとお互いが理解し合えるのではないかと思います。言葉が通じたとしても争いはあるでしょうが、今より何分の一かに減るかもしれません。
そして広島の人間として言えば、戦争あるいは原爆の恐ろしさをよく知ってもらいたいのです。最近、広島を訪れる修学旅行生が減っているということですが、広島市がもっと全国の教育委員会や観光関係者に働きかけて、多くの人に広島へ来て欲しいのです。特に諸外国の首脳陣やリーダークラスの人たちが広島を訪れ、原爆の恐さ、悲惨さを知ってもらいたいのです。
原爆の恐ろしさが、どのようなものかということを皆さんに知ってもらい、一人ひとりが戦争になるような発言や行動を取らないことです。
まず自分が、そして全世界の一人ひとりが「戦争は、特に原爆使用は人類の破滅に通じ、絶対に反対だ」という気持ちを強く持つことが大切なのではないでしょうか。 |