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平和を願って 
熊谷 節子(くまがい せつこ) 
性別 女性  被爆時年齢 27歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島市福島町[現:広島市西区] 
被爆時職業  
被爆時所属 大竹町義勇隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私の家は佐伯郡大竹町第一区にあり、父の中川大力、母のマキと八人兄弟の大家族でした。

父は大竹に何軒もある紙の製造元から集まった紙を東京や朝鮮半島で売り、集金する仕事をしていました。以前は、大竹の町会議員をしていましたが、三十年間連続で町会議員をした人は広島県下にいないということでした。また、父はお金にあまりこだわらない人で名誉職を五つも六つもしており、氏神様を建て替える時には中心となって寄付の世話をしていたようです。戦時中には母が畑を作って、野菜などはほとんど自給していました。
 
●八月六日の様子
八月六日の朝、私は総勢千人近くの大竹地区国民義勇隊の後発隊として、大竹駅発六時五十分の列車に乗り広島に向かいました。広島市で建物疎開の作業をするということだけで、具体的にどこへ行くのか聞かされていませんでしたが、『大竹市史』によれば、私たちの目的地は小網町だったようです。

父は六十五歳と当時としては高齢でしたが、義勇隊に参加し責任者の一人でした。そして男性を中心とした先発隊として、六時十分発の列車で既に広島に向かっていました。責任感の強かった父に、「ほかの家も家族を義勇隊に出すのだから我が家からも出なければいけない」と言われ、その日私も参加することになりました。大竹から汽車で広島市に向かいましたが、己斐駅で汽車を降り、広島の街の中心に徒歩で向かい、己斐橋を渡りきった辺りでぴかっと前方が光り、電信柱や瓦が飛んできました。正面から原爆を受けたので顔が焼け、手や顔も傷だらけで血も出ていました。衣服はぼろぼろでぶら下がり、まるでおばけのようだったと思いますが、意外と意識はしっかりしていたように思います。その時はだれかが自分たちを狙って攻めたのだと思って、本当にびっくりしました。

多くの人が一緒にいましたが、皆「お母さん、お母さん」「助けて」と泣き叫びながら逃げて行きます。私は誰ともわからず人について行き、先ほど渡った己斐橋を戻り、己斐の山の方へ逃げましたが、川へ下りた人も多かったと思います。

まもなくして黒い雨が降り、その雨がやむと私は周りにいた人たちと一緒に大竹方面に向かって歩き出しました。何かを食べることも飲むこともなく歩き、楽々園辺りに着いたのが午後三時ぐらいだったかと思います。汽車が動き出していたので、近くの駅から汽車に乗って大竹まで帰りましたが、その頃には辺りは暗くなっていました。

大竹駅からは担架に乗せられて一度役場の二階に集められ、その後トラックで自分の家へ連れて帰ってもらいました。家族は私の帰りがとても遅いので、どうしたのかと思って大変心配したと言っていました。自分では何とも思っていませんでしたが、東京から疎開していた姉が「こんな状態だったら生きていても困るだろう。死んでいたほうがよかったかもしれない」と言ったのをよく覚えています。
 
●被爆後の症状
「死んでいたほうがよかったかもしれない」と言った姉ですが、しっかり者で私の看護を付きっきりでしてくれたのもこの姉でした。顔がのりをつけたようになって、皮膚の色は真っ赤になるかと思えば紫になるなど、しょっちゅう変わっていました。日に何回もガーゼを取りかえて治療しましたが、皮膚がかまぼこ板を貼りつけたぐらい盛り上がってくるのです。治っても湿布をした方がいいといって、ずっと湿布をしてくれましたので、「原爆に遭った」と言ってもみんな本気にしない程度になりました。このように姉が一年近くも看護してくれましたので、病院に通う必要がありませんでした。姉にはとても感謝しています。

私の看護をしてくれた姉は、自分が被爆したわけでもないのに、手がやけどをしたようになりました。そして東京に帰った後、何年かたって顔のがんになり亡くなりました。がんになった時、姉は「手術もできない」と言っていました。

私は被爆のためか、昭和四十年代ぐらいから、すい臓が悪く胆石ができ、五十代になってから背中の腰椎が変形して、山口県柳井でマッサージを受けたのですが、費用が一回に三千円から五千円要るのです。歯も悪くなったので総入れ歯になりました。今の入れ歯で三度やり直したことになります。昭和五十三年から健康管理手当をもらえるようになり、今はおかげさまで生活には困りませんが、その当時は治療にずいぶんお金がかかり、衣類などを売って食べるものを手に入れるような生活でした。今でも病院へ通っており、今度、目を手術するようになっています。

被爆して私が家に帰った時には、父は既に帰っていました。父の属していた大竹先発隊は天満町、榎町付近に到着して当日の作業説明を受け、作業に取りかかろうという状況だったようです。父は、ちょうど家屋の中にいたため、けがややけどもなく、平素の行いがよいから自分は傷ひとつせずに無事だったと言っていました。

その父の様子が八月下旬ぐらいから変わってきました。私も療養中で寝ており、父のそばにいなかったため病状は詳しくわかりませんが、九月二日に弟が軍隊から帰ってきた時には、もう物も言えない状態だったようです。安静にしていなければいけないと言っても、呼吸困難などの苦しさのため手足を押さえていなければ飛び上がるような状態で、荒い息をしているのが二階にいても聞こえるぐらいでした。声と言ったらいいか、音と言ったらいいか、わからないようなうなり声を出していました。九月四日に亡くなった時には放射線の影響なのか、体は真っ黒になり、普通の皮膚の色ではありませんでした。結局、私は原爆に遭った後、父と直接話すことはありませんでした。
 
●戦後の生活上の苦労
戦後、我が家の生計は、姉の洋裁と私の畑仕事で賄っていましたが、そうした時、編み物の講習が国の制度であることを知り、私は編み物を習い始めました。すると山口県錦町広瀬(現在の岩国市)にいる妹の夫が「年をとってからは畑仕事では生活ができないだろうから編み物教室をしてはどうか」と言い、地元で生徒を集めてくれましたので、免状を取ると広瀬に行き教室を開きました。妹夫婦の呉服屋の二階で洋裁、和裁、編み物を教える生活が続き、昭和三十三年頃大竹へ戻り、今度は公民館で手芸と編み物を中心に教えて今まで生活してきました。

当時はうまく覚えることができず、ほかの人より時間をかけ、苦しんで何とか免状をとって編み物の指導者になりました。私は命がけで生活していましたから、有名な指導者が教えてくれる講習会には、体が悪く足が痛くてもがまんして東京にでも通いました。眠れない時には仕事をしろということだと思って寝ずに仕事をしました。人と遊んだりテレビを見ることはありませんでした。一度講義を聴いたぐらいでは、人に教えることはできないので、お金がかかっても同じ講義を人から笑われるぐらい何回も受けました。必要なことはどうしても習わなければいけない、どうしても覚えなければいけないと思っていましたから、何を言われても腹は立ちません。それで水引の免状や手芸など手編みのイイダ式の免状も取りました。

そのように努力したため、『編物ヴォーグ』に応募した時にも入選して本に載りましたし、東京の編み物の審査員から依頼されて出品することもありました。
 
●次世代への思い
現在、私が一番思っていることは、どんなに貧乏をしても国がうまくいかなかったら困るので、自分本位ではいけないということです。自分本位では絶対に世の中は治まりません。今の世相を見ると、しょっちゅう国を指導する立場の人たちが断りを言っていて悲しくなります。もっとしっかりしてほしいと思います。名誉とか恥を忘れてはいけません。

以前、私が個展を開こうとした時、資金がまったくなく生徒さんもいませんし、体も悪いので、とても個展ができるような状況ではありませんでした。しかし、周囲の人たちの協力があり、個展を開催することができました。その様子を撮影しアルバムにしてくださった方もいました。お金をかけたものはひとつもありません。お金は大切ですが、お金をもうけることは本来ではありません。

端的に言えば人生は徳を積むことが目的で、この世で徳を積まなければ、あの世へ行っても苦しいことばかりです。言葉ひとつでも人を殺したり喜ばせたりできるのですから、言葉ひとつでも人を悲しませてはいけません。ましてや原爆は人類を滅ぼすものですから、二度とあってはいけません。心から皆さんが世界平和を目指して生きてもらいたいと願っています。 

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