八月六日のあの地獄さながらを目の前に浮べて今でも涙が溢れます。つとめて原爆の話にはふれない様に又自分の口からは話さない様に過してきてもう五〇年も経ったのかと記憶はうすれるどころかこんな事を書くことがもう胸のいたみを深くするばかりです。
比治山線の通りを宇品へ向う荷馬車に死んだ人を山の様に積んで目の前を通ってゆく。垂れ下った腕がブラブラゆれていて、はだしの足がニョッキリつき出ている。丸で家畜同然の光景に私は思わず息を呑んだ。道端には死んだ人がまだゴロゴロとひっくりかえっていた。
辛うじて助かった私は、怪我をして動けない方達に配給のおにぎりをくばり乍らあの馬車は似島へ行くんだと聞いた。その時私は初めて心から両手を合わせてこの「ばくだん」はただ事ではないと感じた。
五、六才位の子供が「お姉ちゃんお水」と私を呼んだ。あわてて湯呑みに水を入れてこぼさない様に両手で持って走っていったけど呑むだけの力がなくて私の目の前で息絶えた。ゴメンネと云い乍ら名前も調べずに立ち去った私は今でも本当に悔やまれる。
その時は負傷した母と弟の面倒みながら家族は死ななくてよかったという事しか考える余裕がなかったのである。母はのちに亡くなりました。
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