朝食後、義父波多野慎一の出勤を見送り義母波多野朝代と共に、白手拭をかぶり白ブラウス黒ズボンで大八車を引いて疎開地の木材を貰う為に家を出発し横川電車区のそばを通り、信用組合を前を通って電車横川終点にさしかかった。
大八車の前を私が引張り後を義母がついて来て小網町をめざしていた。その時、私の後で紫色の光がパッとしてひかり私は、誰かが炭酸マグネシュウームをたいて写真を取ったのかと思ったが、いやそういう事はない。何だか変だと思い目ハナ、耳を指でおそい車の下にもぐりこんだ。後はどうなったか分らない。私を呼ぶ母の声に周囲を見まわすと大きな柱や、木片で体が埋っていた。胸から上は、何もなかった。周囲はもの音一つしなかった。電車はそのまま止っているのが見えたが乗客の様子は、目に入らなかった。母が側の工専生にたのんで私を引張りあげてくれた。二人はとるもとりあえず電車区の側を通り打越の家に帰った。途中静かで火事の火も煙もあがっていず附近の景色も目に入らず、一人近所の古田さんの奥さんが頭から血を出して窓から首を出して居られた。家は半カイであった。ケイボウ団の人が二人いてこの家は、今にたおれるから中に入ってはいけないと言ったのでそばにたっていたら家がたおれた。非常持ち出しが廊下に置いてあるのが見えたのでその袋と、ちょうのを持母と二人で三滝の方面ににげ雨が降って来そうなかったので附近のこわれた家の中に入り暫くの時間中にいた。家の人は一人もいなかった。雨がやみ又打越町に帰った。その間家から三滝の方ににげる途中で大勢のけが人が、被服がやぶれたり皮膚がたれさがったり出血した人がきれ目なく三滝の方に向って行列で行かれた。私達ももっていた大きなフロシキを一人の女の人にあげた。母と私は、母がウデにすりきずを少し私はムキズであった。母の話しでケイトク工業所の社長が、戸板を四人の男性がかつぎその上にすわってつれて行かれた大きなすがたが、今でも頭からはなれない。報国隊の腕章をした男性が畠の中にたおれていたりしていた。その夜は、遠縁の室崎家の家より砂まじりの米を出しそれを中谷家の井戸で水を貰いたき畠に戸板を置きその上に母と室崎小父さん、和(娘)ちゃんとねた。小母さん達は火傷をして、小学校に居られた様に聞いている。夜中中、あちこちで火災がおこり小さいバクハツ音がしていた。八月七日八月にしては寒い夜をすごし朝を迎えた。
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