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被爆体験について 
西本 茂子(にしもと しげこ) 
性別 女性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 中国配電㈱(広島市小町[現:広島市中区小町]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 中国配電㈱ 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は広島市小町三三番地の中国電力(株)本店一階経理部経理課予算係に勤務していた。八月六日空襲警報解除により地下倉庫から経理の書類を持出し机上に置いた瞬間炸裂。もの凄い黒煙。机の下に入ったのは良いが隣の書棚が崩れ落ち、そのうち意識が薄れた。暫くして気付き出ようとしたが、なかなか出られない。「助けてー」と悲鳴を上げた。一旦飛び出したT係長は重要書類を持出す為引返して来られた。そして引っ張り出してもらった。窓際の机の上の書類はもう燃えていた。腕と見ると全部の毛穴から血が滲んでいた。裏口から外に出た。茫然と立ちすくんでいる人々がいた。国泰寺のグラウンドへ逃げた友人は八月半ばに亡くなった。私達は比治山の方へ逃げようと裸足で歩いた。見渡す限り瓦礫の山。あちこちで火が見える。比治山の防空壕の中に昼過ぎまで入っていた。その間嘔吐した。逃げて来た人の中には、火傷でぼろぼろの衣服、顔の皮膚がたれ下って頭の毛は針のように逆立っている。ある人が兵器支廠の所まで行けば似島の方へ運んでくれると云うので行って見たがT係長は顔に私は背中の一部の火傷位では駄目でした。T係長の知り合いが翠町の方にあると云うので尋ねビールビンに水、むしろ、下駄などもらってT係長の自宅(可部町)へ帰えろうと云われた。稲荷町電車専用橋は熱線で枕木も焼けていた。この橋を恐る恐る渡って繁華街の福屋百貨店旧館前電車通りを通り紙屋町西練兵場入口陸軍病院のあった所に入った。防空壕に水がたまり、人が折重なる様に死んでいる。又、軍馬も二、三頭とび跳ねていた。その中を横切って三篠橋に出た。川土手に沿って歩いた。我が家の方は火煙に包まれている。未練を残しながら・・・暗くなって古市から可部線が動くというので待ち午後一〇時過ぎ可部上原の家へやっと辿り着く。着ている服も背中が半分垂れ下がって異様な匂がする・・・省略。

翌々日可部の叔父に連れられ中広町の自宅に向った。家は全壊焼失は免れた。当分土手に蚊帳を吊って休んだ。父は学徒動員で小網町へ疎開作業に出ていた。一時人事不省にて倒れ気が付き昼過ぎ帰っ来ていた。手の骨が見えるほど火傷していた。弟は顔、手、背中と大火傷。ただ呻くばかり。看病に精を出した。その甲斐もなく父は九月一日死亡した。福島川の河原で我家の薪など敷いて荼毘に付した。

家に帰ると今度は私が不調を訴え倒れた。三九度以上の熱。全身に〇・五ミリ位の紫色の斑点(皮下出血班)があらわれた。足の五、六個所が化膿してきた。頭髪は脱毛。熱は続いた。歯ぐきから出血。血の塊りがブラブラし取り除くとまた出血、血尿血便での痛み喘ぎ喘ぎ死線をさ迷いながら一カ月半を過した。母の里の方で医者を頼み来診。私の血液を腕からとり腿に注射したりした。又玉葱人参などすり下ろした汁等々飲んでいる中徐々に熱が下りはじめ二カ月経過してやっと職場に戻る事が出来た。その後も白血球が減少し微熱が続いた事もあった。今でも貧血高血圧で通院している。核兵器廃絶を願うのみです。
  

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