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被爆体験について 
山口 節子(やまぐち せつこ) 
性別 女性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 中島国民学校(広島市水主町[現:広島市中区加古町]) 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日、水主町にあった中島国民学校で被爆しました。被爆後は、急に明るく光った事だけ覚えていますがその後、どれだけ時間が過ぎたか分かりませんが、学校の下敷きになっていました。私は、人の声がして、その声の人に出してもらいました。

被爆後の家族との連絡場所は、広島刑務所でした。私は、そこまで歩いて行こうとしましたが、ハダシで地面が熱く、雨も降ってきました。そこで、川まで降りて、船に乗ろうとしましたが、火のつくおそれがあるため、乗る事をやめました。私は、どこへも行く事ができず、道もないところを、ただ歩き続けました。やっとの思いで、刑務所につきましたが、食べる物もなく、道路にあった、ポンプの水を飲み続けました。その日は、刑務所で過ごす事になりましたが、夜になっても、あたりは火の海でした。次の日「とのみさん」という方が、私の兄を知っておられ、兄の所へ連れていって、いただきました。兄は、刑務所に勤めており、その刑務所で両親が来ることを、祈って待っていました。

二、三日後、両親は、刑務所まで、たずねてきました。両親は、頭にケガをしていて三角きんを巻いていましたが、わりと元気そうでした。私も、刑務所の中で、頭のキズを手当てしてもらい、二、三針ぬいました。

その後、八月一五日頃まで刑務所にいましたが、家の防空ごうに戻りました。が、私の体の調子がだんだん悪化し、体に赤いハンテンが出たり、オウ吐のくり返し、最後には、髪の毛がすべて、抜けおちてしましました。日赤病院へ行きましたが、もう、どうなるか明日までもつか分からないと言われました。

両親は、私の事を、治そうと、柿の葉をせんじて飲ませたりしました。

いったんは、あきらめていましたが、何日かするうちに元気を、取り戻す事もでき、髪の毛も、はえてきました。

五〇年たった今でも、八月六日が近づくと気分が悪くなり、寝こんでしまうときがあります。

以上
  

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