八月六日、水主町にあった中島国民学校で被爆しました。被爆後は、急に明るく光った事だけ覚えていますがその後、どれだけ時間が過ぎたか分かりませんが、学校の下敷きになっていました。私は、人の声がして、その声の人に出してもらいました。
被爆後の家族との連絡場所は、広島刑務所でした。私は、そこまで歩いて行こうとしましたが、ハダシで地面が熱く、雨も降ってきました。そこで、川まで降りて、船に乗ろうとしましたが、火のつくおそれがあるため、乗る事をやめました。私は、どこへも行く事ができず、道もないところを、ただ歩き続けました。やっとの思いで、刑務所につきましたが、食べる物もなく、道路にあった、ポンプの水を飲み続けました。その日は、刑務所で過ごす事になりましたが、夜になっても、あたりは火の海でした。次の日「とのみさん」という方が、私の兄を知っておられ、兄の所へ連れていって、いただきました。兄は、刑務所に勤めており、その刑務所で両親が来ることを、祈って待っていました。
二、三日後、両親は、刑務所まで、たずねてきました。両親は、頭にケガをしていて三角きんを巻いていましたが、わりと元気そうでした。私も、刑務所の中で、頭のキズを手当てしてもらい、二、三針ぬいました。
その後、八月一五日頃まで刑務所にいましたが、家の防空ごうに戻りました。が、私の体の調子がだんだん悪化し、体に赤いハンテンが出たり、オウ吐のくり返し、最後には、髪の毛がすべて、抜けおちてしましました。日赤病院へ行きましたが、もう、どうなるか明日までもつか分からないと言われました。
両親は、私の事を、治そうと、柿の葉をせんじて飲ませたりしました。
いったんは、あきらめていましたが、何日かするうちに元気を、取り戻す事もでき、髪の毛も、はえてきました。
五〇年たった今でも、八月六日が近づくと気分が悪くなり、寝こんでしまうときがあります。
以上
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