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被爆体験について 
廣瀬 修次(ひろせ しゅうじ) 
性別 男性  被爆時年齢 30歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市新庄町[現:広島市西区新庄町] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日出勤準備でゲートルを巻付けている時西区新庄町自宅屋内で被爆した。戸棚が倒れたが柱があり斜に掛かり頭に軽いへこみが出来た。座敷の廊下の一枚ガラスの扉一〇枚のガラスが飛散し豆をまいたようになったが誰もこの附近に居なかったのは幸であった。長女三才が他の窓ガラスで脚に切傷を少しした。長男五才は玄関にいて爆風で入口の扉が道路側に吹倒される直前叔母に付いて出て助かった。家族祖母、母、妹親子(乳児を連れていた)、長男、長女も無事であった。家屋はひどく壊れ北側の家屋等垂下っていた。近くにあった蒿屋三軒共火災が発生した。何処か近くに大きな爆弾が落ちたと思った。裏のとうもろこし畑に避難していた時黒い雨が降った。

妻は打越町の三篠小学校にいたが身重な体なので職員室にいて助かった。火災で道路が通れないので山寄りの小路を通り新庄町の自宅へ帰った。

自宅の前可部街道を焼ただれてボロボロになった衣服で幽霊のような姿で北へ北へと逃げて行く人々見るに忍びなかった。母がらっきょうと梅干を玄関先に出して置いたのをつまんで行く者もあった。

私の隣組が建物疎開の当番で当日数名が帰宅しなかったので組長をしていた私と他二名が翌日七日から毎日三日間土橋堺町、十日市、天満町相生橋方面まで焼残りの火の熱い中を探し歩いた。途中顔が焼けただれて座っている人から水を呉れるよう言われたがやけどに水を呑ましては悪いと、聞いていたので与えなかった。私達も喉が乾いて破れた水道管から水が流れ出していたが飲まなかった。

自宅附近は家が壊れていても残っているので多くの人が避難して来た。その人達次々と死ぬるので川原に一〇箇位長い穴を掘って火葬をした。葬儀も何もあったものではなかった。神も仏もないものかこの世の地獄のように思われた。

私もその後健康が勝れず遂に結核で大竹国立病院へ昭和二二、二三年入院して胸郭成形術を受けた。
  

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