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被爆体験について 
林 倭文子(はやし しづこ) 
性別 女性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
終戦後五〇年が立ちました。

原爆が落ちた時は佐伯町峠の自宅に居りました。死亡した弟は当時修道中学校の二年生でした。母は当時、学校の先生が何処かへ避難させてもらって居るだろうと安心しておりましたのですぐ探しに行きませんでした。

七日夜、隣の部落永原の小島さんの家の方が寄って下さって、弟が全身火傷で共済病院現在の県病院の近くと思います。

小島さんは崇徳中学校の二年生で現在生きておられます。小島さんの家族の方が小島誠さんの名前を呼んで探しておられましたところを火傷で顔も分らない弟が声をかけました。それで私方へ連絡して下さいました。翌朝母が先に広島へ行きました。隣村の玖島村トラックが己斐迄送迎して下さいました。母はその晩は帰りませんでした。翌日九日親類の伯父と二人で私も広島へ向って行きました。己斐から伯父と福島橋天満橋、住吉橋明治橋と渡って行きました。途中、急いでおりました。道端にはむしろを引いてむしろがつるしてある中で火傷怪我の人が寝ておられ河の中にはふくれあがった死体が浮いておりました。御幸橋を渡った頃空襲警報が鳴り伯父と防空壕に入りました。以前の専売局の近くと思います。お昼過ぎかと思います。途中お水をほしがる人名前を書いた名札を枕下においた人等寝ておられました。私達も急いでおったので警報が解除になって病院に急いで行きました。本当にお化けを見る様でした。白い薬をぬって頂き、目と口だけで上半身は裸でした。息をするたびに水ぶくれが大きくなるのが目に浮びます。家に帰りたい、家に帰りたいと申すので伯父と明日大八車で迎えにくるからと話しておりましたが午後四時前亡くなりました。いろいろの方を見て、感無量で言葉もありませんでした。途中歩いて帰る時、日赤の前で死体に油をかけて焼いておられました。今も分らない家族等沢山おられると思います。私方は三日も生きて死体があったのがまだ良かったと思います。
  

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