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被爆50周年で思う 
縫部 正康(ぬいべ のぶやす) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島機械製作所(広島市南観音町[現:広島市西区観音新町四丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島工業学校電気3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日 被爆する
八月七日 被爆者収容所へ弟を探しにゆく
八月七日 弟を探しに広島県庁附近(旧県庁)へゆく
八月八日 父母私三人で弟を探しに広島県庁附近へゆく


被爆五十周年で思う
昭和二十年八月六日 
県立広島工業学校電気科三年生のこと。―私―縫部正康
県立広島工業学校電気科一年生―――――弟―縫部寿彦
私――学徒動員で広島市西観音町三菱重工kkへ通っていた。
弟――学校へ、通学――八月八日私が確認――広島県庁付近へ、疎開作業で。

昭和二十年八月五日
弟は、ないことに、仏壇へ、まいっている、どうしたことかと、母と私
父は―江田島へ徴用で留守
長男―米子―兵隊―航空
次男―朝鮮鎮海―軍属
三男―私――自宅
四男―寿彦―自宅――被爆死亡
長女―九歳―自宅
五男―三歳―自宅

昭和二十年八月六日
弟は、今日は学校に行きたくないと、言った。母は、どうしてと、聞いたら、弟は、靴がないと言った、母は、私のじかたびを、はいて行けと言った。

それでも、学校へ行きたくないと、いった。母は、日本男子が、そのようなことではだめ、行きなさいといっていた。弟は、学校へ行き帰らぬ人となった。

「むし」がしらせていたのかなーと思う。

私は、JRで、坂駅から広島へそして、電車の己斐行きの電車観音停留所へ、観音停留所から、三菱重工まで、徒歩で、広島駅から、数人の同級生と同じ電車で、市内電車観音停留所からは、また、数人が一緒となり一団となり、他の学徒動員の人も、数人の、塊が、数米(めーとる)空けて、三菱重工へ三菱重工へと、歩いている。そのころ、警戒警報が発令されたと、大きい声で、付近の人が、叫んでいる。我々学徒動員は、警戒警報となると、自分の家で待機することとなっている。誰からか、帰ろう、帰ろうといっている。一団となっている塊が、いまきた道を折り返して、帰っている。我々の一団も、同じ行動となり、観音の電車停留所へ今電車が、観音電車停留を発車したばかり、なかなか電車がこない。そのうち、警戒警報が、解除と大きな声で、叫んでいる。警戒警報が解除だ三菱重工へ行こう、誰かが、しらなかったことにして、帰ろうといいだした。が、三菱重工へ行こうと云う声多く、また、三菱重工へと歩き出した。

今おもうに、電車に乗ることができていれば、時間的にちょうど原爆投下の中心付近で、被爆し、今は、この世にいない人となっているとおもう。なんと生き運のある自分。ありがたく思うとともに、微力ではあるが、原爆の廃絶に尽力することが、自分のつとめであるとも思っています。

三菱重工に着き、決まった職場へ、私の仕事は、電気製品の修理で、同級生三人NKNSと私、UC伍長(ごちょう)の四人。その工場は、バイス台四台で天井は高く、スレート屋根のしたで、高圧(三千三百ボルト)のモータからバリカンの修理と毎日忙しく作業していた。

八月六日原爆投下の時は、幸せなことに我々同級生は、全員本部の二階の教育場へ指導があるから、集まれと命令があり、作業前八時前その会議室に全員集まっていた。会社の人が、八時から話し出した(今なんの話しか覚えていない)我々は、それぞれ机に座っていた。私は一番窓際(窓は、南側のみ)に座っていた。

会社の人の話が始まってまもなく、窓の外がピカとひかり、無意識に窓の外を見る。ひかりが、目にはいったきがした。まもなく、隣の食堂の建物が崩れるように壊れているのを見ると同時に、机の下にかくれる。建物がゆれていることの覚えがないくらい、気が動転していたようである。しばらくして、気が付く。建物が倒れていない。建物はコのじになっていたため、倒れなかったと思う。皆外に出て、防空壕(ごう)のほうへ走っていっている。頭に触ると、ガラスが立っている。これを取る、あまり深く立ってない。

防空壕(ごう)へ行く途中私の作業場がある。防空壕(ごう)へ行く前に作業場へ行く屋根のスレートは、被爆で、全部作業場へ落ちている。作業場には、隠れる場所はない。ここにいたら、どうなっていたか、と思う。

私も、防空壕(ごう)へ走って行く。防空壕(ごう)では、入りきれないほど、人がいる。なんとか入ることができた。(防空壕(ごう)は工場からはなれた川の近くにあった。前広島飛行場付近)

しばらくして、外に出て見ると、広島中心部にキノコ雲がクッキリと、少しずつ少しずつ大きくなっている。時間がたっても、そのキノコ雲はくずれるようでない生きている、マモノのようにゆっくりと、動いている。誰となく、あれは何だ、あれは何だといっている。ピカときて、ドンと大きな音がしたようである。

また、しばらくして、広島の中心部をみるとキノコ雲の下が、真っ赤であり、火災が、発生しているようである。それが、キノコ雲の下で、その真っ赤な火が、少しずつ、少しずつ大きく広がっている。これらがみえる、どうなっているのやら、その火はどうも紙屋町・八丁堀付近のように見えるが、その他には、なにも起こっていないようである。もう、我々は大丈夫だということで、また、工場(作業場)へ行く、屋根のスレートが作業場のあしもとに踏み場もなく重なりあって落ちている。作業ができる状況でない。もし、教育場への集合がなかったら、どうなっていたかゾーとする。我々は顔を見会わすだけであるが、思いは皆同じである。

しばらくして、学徒動員生は、家に帰ってもよいとの指示を受け、それぞれに別れて帰路につく。

帰路

三菱重工から広島中心部へと歩きだした。観音本町に近づくと、広島の中心部からゾロゾロと海岸の方へ逃れて歩いてくる。まさに、地獄から、のがれる様である。その様は物凄(ものすご)く火傷(やけど)した人、怪我(けが)をした人、誰も皆着ているものは、ボロボロで、その着物は半分以上はぶら下がり、頭の髪の毛は、直接光線を受けたところか、髪の毛が焼けて部分的に髪の毛がない。本当にひどく大変であったことが、手に取る様である。対面であるいている私たちは着ているもの体も、なんともない、皆私たちをジロジロ見る。私たちの方が、恥ずかしいようである。私たちは、広島から家に帰るため、広島の中心部へ中心部へと、電車に乗るつもりでいたが、もちろん電車は来るはずはない。どんどん広島の中心部のほうへ歩いていたが、熱くて熱くて広島の中心部のほうへ歩いて行くことができない。ここでも広島の中心部から海岸のほうへ一団となって怪我(けが)、火傷(やけど)をした人が、ぞろぞろと歩いている。どうすればよいか、私たちは遠くなっても、やむなく西広島のほうを通って帰ることにして、また歩きだした。しばらく歩くと火がでた。水、水と叫んでいる。私たちはすぐそこへ走って行きバケツで火をけし、また、西広島のほうへ歩く。途中自転車等が、数多くあるが、借りてゆこうと云う人もいたが、泥棒になるからやめとけと云うことで、また、歩きだす(後日見るとその自転車は皆焼けていた)西広島駅付近から、鉄道線路づたいに広島駅方面へと歩く、なんと、鉄道の枕木は一本一本燃えている。松根油をとるための松の根も一本一本燃えている。その付近は、広島の中心部が一望できるところである。広島の中心部の方から、大きな音がする。なんと、ドラム缶が大きな音とともにロケットの様に、空に向かって次から次と飛んでは、落ちて行く。まさに、いき地獄である。

ようやく、国道五十四号線にでる。ここでも、まだ、広島の中心部から続々と、火傷(やけど)、怪我(けが)をしボロボロの着物を着て、見られたものではない、格好をして、ぞろぞろとここでは、可部の方へ歩いている。これらのことから、私たちは、広島駅を通過することは、できないと思い、戸坂峠を通ることにして、また、歩きだした。私たちは歩くのが、ほかの人より早い、怪我(けが)火傷(やけど)した人を次ぎ次ぎと抜いて行く。その中にベタギン(将官)の人が、タンカに乗せられて戸坂方面へ、片方の目をトビダシ、痛い痛いといっている(私たちには平素から爆弾が落ちたら、目を手で押さえるように、指導していた、張本人であるのにと思った)

ようやく、戸坂峠にさしかかり、矢賀へと、下り坂をくだっていた。その時ノブヤス、ノブヤスと私を呼ぶ声がする。誰か分からない。それもそのはず、着物はボロボロ顔は真っ黒で顔、頭と火傷(やけど)して見られたものではない。わしは、忠光であるとゆう、それでわかる。家に帰ったら、忠光は、戸坂の軍の病院へ行っていると、伝えてくれ、私はそうしますと云って別れた。(家に帰って忠光の家に行き忠光の親に伝える。後日聞いたら忠光の親が、戸坂の軍の病院に、着いた時には、もう死んでいたとのことであった。)忠光と話しているうちに、皆は、私を気にしながら、どんどん先に進んでいる。私は走って追いつく。そのうち、黒い雨が降りだしたので、近くの民家に雨やどりする。しばらくすると、雨があがったので、また歩きだす。キリンビール工場を左に見て、海田へ海田へと歩く、そのうち船越峠にさしかかる。私たちの前に若い女性が、被爆し、着ているものは、ボロボロで焼けてほとんどない。頭の髪の毛は光線をうけたのか頭に髪の毛が、ないところがあり、裸どうぜんで三人とも、おなじようである。私たちが、ちづずくと恥ずかしいのか、木のかげに隠れる、私たちは、ちらっと横目で見て海田駅へと歩く。海田駅に着いても、汽車は全部ストップしている。ここから友達と別れて、国道三十一号線へでる。トラックは、動いている。トラックに乗せてもらって家にかえる。

家に帰り着くと、なんと、家のなかの、戸という戸、フスマというフスマは全部はずれて飛んでいる。家の前から、隣が、まる見えである。母に今帰ったというと、びっくりした顔で、死ななかったのか、おまえは、死んだとおもっていたと云う。これが、母の第一声であった。しばらくすると、我にかえったのか、弟は、学校だから、大丈夫でそのうち帰るといい、母と二人で、家の中の整理をする。弟は、待っても待っても帰ってこない。母は心配になったのか、イライラしだし、まだ帰らんまだ帰らんと、ブツブツいっている。八月六日弟は、ついに帰らなかった。

八月七日
母は弟寿彦を探しに、被爆者収容所回りに行く。

私は、家の近くの小学校の講堂に被爆者が収容されていると聞いたので、弟寿彦を探しに行く。ここにも弟はいない。ここではムスビがあり、食べなさいといって呉(く)れる。ここで御世話する人の話を耳にする。

ほとんどの人は、水をくれ、水をくれといっている。
この人はあまり悪くないので死ぬことはない、水をやってはいけない、といっている。クスリもない。
この人は、もう助からないので、欲しいと云うものを与えよう、といって、水ムスビをあたえる。クスリはない。

水をあたえなかった人は、つぎからつぎから死んで行くようである。

欲しいものを与えた人で、助かった人が数人いるようである。

このような話をきいた。

被爆した人は、水が良いのだと、子供ながらにこう思った。今でもそう思っている。母が帰って来て、どこにもいない、もう死んだのかなあ、と肩を落として、寂しいそうである。

八月七日 
弟を探しに私と近所の友達と二人でゆく。

母は被爆者の収容しているところへ弟を、探しにゆく。

弟は、県工の電気科一年生であり、私は、弟と同じ県工の電気科三年生である。まず学校へ行くことにして、国道三十一号線へでて、トラックに手をあげて、広島の近くまで乗せてもらう。広島市内比治山の下の道(電車通り)を学校(県工)へと歩く、川を境に広島の中心部は焼け野が原で、非常に見通しがよい。地平線が見えるようである。川から比治山のほうは、家はいたんでいるが、残っている。人もほとんど歩いていない。 

学校にたどり着いても人は一人もいないようである。学校は火災にあってないが、木造の建物はことごとく崩壊している。鉄骨の建物は鉄骨だけで裸になっている。弟の行き場所を尋ねるために来たのに誰もいない。どなたか先生はと学校内を探してまわる。どうしょうもない。あきらめようかと思っていたら、校長先生が私は走って行く。電気一年生は何処(どこ)へ行ったか尋ねるが、わからんとの返事である。どうしょうか、途方にくれていたら、用務員の先生がいた。神にすがるきもちで、用務員の先生に聞くと、たしかではないが、電気一年生は、県庁の方へ疎開の手伝いにいくと、云っていたようである。と教えてくれた。ほかに人はいないようである。それを頼りに、県庁の方へ探しに行くことにして歩きだす。

広島県庁(広島中心部)へと歩いていくと、大手町の方で水道の水が、いきよいよく飛び出している。この水をのむ。八月八日昼頃である。非常に暑い暑い日である。日陰はぜんぜんない。県庁の方へ行くにつれ死人が一人また一人だんだん死人が多くなる。始めは、気持ちが悪く、広島中心部へ行きたくない気持ちがするが、どんどん県庁方へ歩いている。何処(どこ)となくカチカチと時計の音がする。近づくと死人が付けている腕時計が動いている。また馬が大きく膨れて死んでいる。人間も同じように膨れて死んでいる。もうこの頃になると、死人を見ても気持ちが悪いことを忘れている。死人は全員といってよいほど、川へ降りる石段で重なるように、死んでいる。どれが弟かぜんぜんわからん。死人は、頭の髪は全部焼けてぜんぜんない。着ているものも全部焼けて丸裸である。死人全員膨れている。男女の区別もつかない。オッパイを見ても、男女の区別がつかない。男女のシンボルを見ないと区別がつかない。弟がわからん。川を見ると体全部手も足も被爆し真っ赤になっている。大火傷(やけど)したのであろう。その様は手足にものすごく力を入れ苦しんだ形相で一人また一人と浮いている。まさにこの世の生き地獄であったことが、手に取るようである、潮の満ち引きで、あがったり、さがったりしている。川の魚を見ると背中が白くなっているものが多く目につく、(この状況から川へ降りる石段で死んでいるひとは、被爆と火災で大火傷(やけど)とものすごい熱さで水を求めて川へ川へと人が押し寄せてやって来たが水に入ると大火傷がありものすごく苦しむ様を目の前見て水に入ることができなかったようである)

弟をどのようにして探したらよいか、思案にくれていた、誰が知らせてくれたのかこの付近には生きている人は、ぜんぜんいないのに、その時目についたものは、弁当が一箇所に集めて置いてあるものが、目についた。弟がこの近くに死んでいればここに弟の弁当があると思い、集められた弁当箱を見ると、よくにた弁当箱がある。中を見ると、八月六日朝母が入れてくれたおかずと同じである。弟はこの付近で死んでいると確信し、念入りに探しても探しても死人あまりにも多いい。弟は、どうしても見つけることが、できない。しばらくここにいたが、あきらめざるをえない。母を連れてくることにして帰ることにし相生橋の方へゆく。なにをしているのかパラパラと人が歩いている。相生橋の欄干は飛んでない。橋は落ちていない。橋のたもとではカンパンを配っている。カンパンを貰(もら)って食べ歩きする。付近を見ると鉄骨だけがぐなっとなって残っている。これが産業奨励館である(現在残っている原爆記念館である)遠くの方にも幾つか鉄骨だけがグラッとなって残っている風景が目にはいる。ほかには残っているものはない。相生橋付近には、自動車等は、全然走っていない、家に帰るため今来た道で帰ることにして、また、県庁の方へ歩きだす。この時間になると人が一人また一人と人を探しているようである。県庁跡付近に来たころ、県庁の地下だとおもわれる鉄筋コンクリートが残っている。人の声が聞こえたのか、その中付近から三人、水水といって歩いてくる。その付近には水は全然ない。三人とも何一つ着物を身につけていない。裸でなにも履いてない。裸足(はだし)である。目は見えないようである。その付近は火災の灰が約十センチぐらい一面を覆っている。私は靴を履いていても熱い熱い、素足では耐えることのできない、熱さであろうと思うが、私としてどうすることもできない。家に帰って母に報告する。明日は父が帰ってくるので、その場所へ母父と行くこととなる。母はあちらこちらと被爆者収容所を探したが弟はいなかったと、ガックリしている。

八月八日

今日は、父、母、私と三人で広島へ弟を探しに行くことになり、被爆死した弟を連れて家に帰ることができるよう、三輪自転車でゆくこととなり、家から広島市の弟のベントウ箱のあったところへ三輪自転車で行く。

今日は兵隊さんが、トビグチで、被爆死した人を一ヵ所に集めて焼いている。

私たち三人は、弟のベントウ箱のあった近くの川へ降りる石段のあるところへ行く。ここでも、兵隊さんがトビグチで、死人を一人一人取り出している。

そのうち、母がこの子が私の子だという。ちょうど弟だと母がいった頃兵隊さんが弟もトビグチで、引き上げようとする、母は待ってくれといって、待ってもらい父と私で弟を引き上げる。私はまだ弟だと、母が云うがうたぐっている。ものすごく火傷(やけど)し大きく膨れている。頭の髪は一本の毛もない、オッパイも大きくなって、男女の区別もつかない顔も腫(は)れあがってよくわからん。毎日毎日同じ家で生活している三歳年下の弟が私には、どうしても確信がもてない。そんなにひどく、やられている弟を見ていると、マキギハンが少し残っている。丁度(ちょうど)足の膝(ひざ)の内側になっていた所のマキギハンの一部が焼けずに残っていた。

これをはずして見ると、縫部寿まで残って彦の字は焼けてない。石段にうずくまっているときは、膝(ひざ)の内側で見えなかったが、うえにあげたとき、わかったのである。

これで弟であることが間違いと確信できた。
あらためて、母とその子(生みの母)とのつながりが非常に近いことがわかり、頭が下がる思いであった。

弟を三輪自転車に乗せて帰ろうとしたが、どうも無理の用である。父がやむを得ないので、骨にして帰ろうと母と話している。兵隊さんにお願いして、その場で火葬し骨にして、家に帰った。

  あとがき

私は、警戒警報解除(電車がこなかったこと)教育場への集合で、命を永らえることができた。しかし、おなじ同級生のなかには、おなじ行動をとった友達が原爆症、歯から血が、止まらなくなって、死んでゆきました。何時自分に、この災難が来るか毎日不安であります。気にしないようにして、明るく、朗(ほが)らかに、他人に迷惑しないよう、努力していますが、原爆の話があるたびに思いだし、なんとしても原爆を世界からなくしなければなりませんが、私には、どうすることもできません。非力な自分がなさけない。非力な私でも、何万分の一でも、役に立てばとおもうが、空振りに終わっているようである。
  

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