国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
斉藤 利彦(さいとう としひこ) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市油屋町[現:広島市中区] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一~一
中心部での被爆(油屋町)のタメ
 
左足複雑骨折により(大小のヒザ下)約七ヵ月後、傷口より砕けた骨がノゾくのでそれをピンセットで取り出していました。その後歩行訓練を(杖を使い)約三ヵ月行いなんとか歩ける様になったのが昭和二一年一一月頃だったと思います。しかし力が入らず重い物はさげられずそのタメ職場が思うように無くずい分苦労しました。
 
骨を取り出したタメか左足が右足に比べ短かく歩行困難を感じたのが昭和四〇年頃からです。右足と比べると約二〇ミリメートル短かい(病院にて測定)。もちろん、歩行訓練当時より靴がぬげないくらい左足が腫れ苦労しました。現在では(約二五ミリメートル)短かく腰の具合もよくありません。ズボンの寸法も左足の方は二〇ミリメートル短かく修正してもらっています。

一~二
被爆に合った為、好きだったスポーツ、運動も何一ツ出来ない。走ることもダメです。乗物に間に合わない事もしばしばあります。長時間歩行もできない(左足が腫れるタメ)等々あり自分の身に腹立つ事もある今頃です。然し未だ未だ不幸な方がおられると思い自分で慰さめています。
 
私の躰中にはヤケド、ガラスのキズ、骨折のキズ、床ズレのキズあと等(頭顔を入れ)二四ヶ所のキズ跡も今では小さくなり、骨かガラスか未だ残っている物があります。


不幸にして親戚の居住が中央部にあり、(材木町、本通り、大手町二丁目、紙屋町、塩屋町、細工町等)原子爆弾投下と同時に二四名が死亡しました。
 
残ったのは老人一人、学童疎開に行っていた小供六人、疎開(緑井村)三人となりました。でもみんなが力を合せ生き抜き現在に至っています。

※被爆の悲しみ、恐ろしさ、悲劇、等々は体験者以外では解らないと思います。(話しだけでは) 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針