被爆の時は広島女専(現広島女子大)の三年生で学徒動員令により宇品の暁二九四〇部隊の船舶司令部に動員され、敗戦色濃厚な昭和二〇年、私達女子学生は竹槍訓練は朝の日課として船舶業務に当たり、軍国少女として軍に協力していた。
その二〇年八月六日八時一五分、建物の中で一瞬のうちにオレンヂ色の光と、続いて天地をゆるがす轟音と共に部屋の片隅にフッ飛ばされ、自分を見失ってしまった。が、やがて隊内は慌しい叫び声があちこちに起こり、怪我人を救護の建物に運んだり、一部倒壊した建物から下敷になった友を助けたりしているうちに、我々女子学生は医療班に集合させられた。
その後間もなく市内からトラックで運び込まれる負傷者の救護に当たる。兵隊さんの助手として薬を塗ったり床に横たえる手伝をした。その被爆者は皮膚はボロ布のように手や顔からぶらさがり、眼球はとび出し頭の骨がパックリ割れ、ただただもう私達は硬直してしばらく茫然自失。兵隊さんにどなられながら負傷者の手当をした。その間も息絶える人が続いた。当時の中学生は勤労動員に出て市中で建物疎開の材木の片付けを半裸状態でしていた為、特に被爆の状態もひどく、母の名を呼び「水・・・水」「あつい、あつい」「いたい」など次第に細る声が聞こえなくなると空をつかんで息絶えていたのである。
その後市内に私達は軍のトラックで入り郊外の救護所に移り、途中市内の廃墟を目の当たりにし、又その中を肉親を探し友を呼びながら自からも傷つきながらさまよう人、それは地獄絵としか言いようのない状況であった。
又、その時市内を流れる太田川には、川面をうめ尽くす人間とも思えない程パンパンにふくれた遺体に息をのみ、目をおおった。
何の罪もない人達が、ただ一発の核爆弾(当時は核であるとはわからなかった)によって人間の尊厳を根底から否定される死を迎えなければならなかった無念さ、残された私達の無力感、申し訳なさ、これは五〇年間、被爆者が抱き続けた思いである。
広島平和公園の慰霊碑の「あやまちは繰り返しません」とは、再び被爆者をつくらないとの日本人全部の切なる願いなのです。
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