昭和二〇年八月一五日、朝から快晴の一日でした。丁度本店に現金輸送の為課長と男行員一名、女子二名計四名で呉海軍のトラックを貸受けて日銀広島支店へと向ひました。
午後の重大放送も聞かれませんでした。「今日は空襲が無くてよかった」と皆で話し合ひ乍ら、原爆でひどい被害を蒙っている広島は一体どうなっているか?と案じ私も母から実家(祇園町)の人達の事も聞いてほしいと云われ、袋町の日本銀行に着いたのは昼過ぎでした。
トラックから降りた途端何もない日銀のみ存在しているにびっくり。私と友人二名は銀行から歩きに歩いて真昼の太陽の照りつける裸の都市を二、三時間やっと可部線の起点の横川へ着き祇園町へと―又歩いて東山本の城豊登宅へ着いたのは、丁度夕食時分でそこで敗戦の事を聞きショックを受けました。久振の銀メシも味気ないものとなりました。翌日呉へ帰りましたが帰途はどう帰った記憶にありません。
帰宅後一週間位してひどい高熱がつづき医者に看てもらっても原因不明で二、三週間銀行を休みました。髪は抜けるし、全身の皮が気味悪い様にむけてしまひました。数年が経ってあれは放射熱と確信していました。が私は入市一週間の方のみ被爆者手帳をもらへると聞いてたので該当外と思ひ手続致しませんでした。それにその時以来元気でしたし私は一、二日のみで原爆に直接会った人達の事を考へると一日にして人生が変った事と思ひます。
先日世田谷同交会で五〇周年の記念誌にも以上の事を書いて提出しました。
|