国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
西村 郁子(にしむら いくこ) 
性別 女性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年八月一五日、朝から快晴の一日でした。丁度本店に現金輸送の為課長と男行員一名、女子二名計四名で呉海軍のトラックを貸受けて日銀広島支店へと向ひました。

午後の重大放送も聞かれませんでした。「今日は空襲が無くてよかった」と皆で話し合ひ乍ら、原爆でひどい被害を蒙っている広島は一体どうなっているか?と案じ私も母から実家(祇園町)の人達の事も聞いてほしいと云われ、袋町の日本銀行に着いたのは昼過ぎでした。

トラックから降りた途端何もない日銀のみ存在しているにびっくり。私と友人二名は銀行から歩きに歩いて真昼の太陽の照りつける裸の都市を二、三時間やっと可部線の起点の横川へ着き祇園町へと―又歩いて東山本の城豊登宅へ着いたのは、丁度夕食時分でそこで敗戦の事を聞きショックを受けました。久振の銀メシも味気ないものとなりました。翌日呉へ帰りましたが帰途はどう帰った記憶にありません。

帰宅後一週間位してひどい高熱がつづき医者に看てもらっても原因不明で二、三週間銀行を休みました。髪は抜けるし、全身の皮が気味悪い様にむけてしまひました。数年が経ってあれは放射熱と確信していました。が私は入市一週間の方のみ被爆者手帳をもらへると聞いてたので該当外と思ひ手続致しませんでした。それにその時以来元気でしたし私は一、二日のみで原爆に直接会った人達の事を考へると一日にして人生が変った事と思ひます。

先日世田谷同交会で五〇周年の記念誌にも以上の事を書いて提出しました。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針