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被爆体験について 
関 孫太郎(せき まごたろう) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は直接、原爆投下された時は広島には居りませんでした。山口県、油谷湾の長門粟野と云う所で大型船で満州大豆の荷上作業に、暁部隊として従事して居りました。アメリカ軍の船舶攻撃に合い大変な被害を受け其の後当地作業を整理完了させ、広島暁部隊の方へ帰属して来ました。山口では広島へ新型爆弾が投下されたと聞いていましたが広島駅を下車してそれはただただ驚くばかりでした。たった一発の爆弾でこんなにひどい広い被害を受けるなんて当時の私には考えられない被害でした。見渡す限りガレキと化し遠いまわりの山々も赤くこげて居り軍馬は光の当ったところだけ半分やけどをしており行きかう人々はただ無力にボウ然と歩いている姿は私自身何たる事と深く深く心の沈みを引き起こさざるを得なかった。

先づ駅を降りて目に付いたのは4、5才とも思われる小さい子供が4、5名程3、4ヶ所で無心にゴミカゴをあさっている其の姿はボロボロになった服とも見えず着物とも云えないものを身にまとっている姿はただただ可愛そうでとんで行って手を差しのべようと思うが軍の隊列の中にあってはどうし様もなかった。勿論、両親、兄弟を失った幼児でせうが其の事すら知らない子を思うとただ涙が浮ぶばかりでした。

部隊に帰ると兵舎は病院と化し(大部分)兵員のうめき声とかすかな、すすり泣きの場面は其の場には居られない光景でした。船上生活当時に甲板長と親しい中でしたので被爆したと云う事で会いに行きましたが会えたと云うか見たと云うか其の姿は顔面の皮がすべてなく真っ赤な肉がむき出して居り何の言葉も出きませんでした。勇気をしぼり自分を告げると聞き取れぬ様な、かすかな泣き声とも最後とも云える様な弱々しい声で助けてくれ、助けて、と意識もわからぬ様な状態でした。私は只々何もする事も云う事も出来ませんでした。今でも其の状態が浮び上がります。翌日宇品(丹那)より市内の中心を横切り食糧確保の為(今、思へば反対側の山のふもと西の方)倉庫を往復して来ましたが途中道路わきには真黒になった胴体だけの焼けこげた人間の腹部が無情にころがっている・・・・

悲しみをこらえながらわが家に向って手を合わせて居る姿全くの無表情さに心の痛手を深く深くきざみ込まれました。

部隊が解散する八月一杯は丹那にいてあれこれの片付け作業に追われていましたが各戸毎には忌中のびらが軒並みはられ、うら手の丘では死者を焼く煙があちこちで毎日の様にありました。戦争はいかん、此の大宇宙からたったあたえられた一箇の地球。知的人類は互に清く正しく生きて行かなければならない。人種間でも勿論の事此の地球其のものを破滅させてはいけない・・・・と。闘病生活は紙面の都合上・・・・ 
  

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