八月六日午前七時すぎ広島高師(東千田町)出発。七時五五分大阪行き列車にのり郊外の向洋駅前(4K)東洋工業当番室に入る。その日より学徒動員されており、八時一五分同工業講堂で工場よりブリーフィングをうけていた。左側窓にマグネシウムをたいたような閃光あり。講師が一瞬だまったが、続けて「大量生産とは」とはじめた瞬間、猛烈な爆風がおそい、窓ガラスは全壊。側にいた教授達が血だらけになって負傷。私は講堂中央にいたため驚いて第二弾を予想し、机の下に身をかくしたが、何もなし。
一時間后、学校が火につつまれている。御真影を守るのだとの教授命令で、直ちに広島市内に入る。各所で火が出ておりどういう道をとったか高師にたどりつく。今まで住んでいた寮が全焼中で、御真影などを救うすべもなし。途中、ぼろぼろの老婆より、「学生さん、このかたきをとって・・」と叫ばれ、初めて、鬼畜米英のやり方にいきどおりを覚える。
その日は一日中、負傷者の救援に当る。■■■■倒れた者あり、近づいて顔をよせると生きている者は「水を」という。死んだ者はそのままにして、生きている者だけ近所の日赤病院に運ぶ。病院はすぐに一ぱいになり、ものすごい状況を呈する。
真夏の日はきびしく、負傷者を運ぶ所は防空壕より他はなくなった。一人の負傷者をリアカーにつんで運ぶ。防空壕の入口は狭く、どうしても腕をにぎってかつぎこまなければならない。火傷の腕をぐっとにぎると皮がずるりとむけて落ちた。あの感触は今も忘れられない。
翌日再び東洋工業のトラックで広島市中央部を行く。爆心地近き所。黒こげの豚のような死体の巨大な山があった。人が運んで作ったわけはなく、強力な爆風により、一挙にふきあげられた死体が上空より落ちてつくった山だと想像する。直視するにあたわず。高師構内にて、白骨になったがいこつをみる。熱風のすさまじさを想像する。
四国の家に帰る。呉にいた甥が一日広島に入る。帰宅してすぐに毛髪が抜け死亡する。私は五日間程広島にいたのでこれをみておどろき血液の検査をうける。一度傷ついたけががなかなか回復しない。
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