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被爆体験について 
中振 英子(なかふり ひでこ) 
性別 女性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二十年八月六日晴。「今日もあつくなりそうね。気をつけていってらっしゃい」といって妹(三女)を送り出す。広島市立高等女学校二年生の妹は、学徒動員で材木町附近の建物疎開作業に元気よく出掛ける。七時三一分警戒警報解除のサイレンでみんなほっとする。

朝食のおいしそうな匂いが台所よりして来る。妹(二女)がむしパンをやいている匂いで私の友達が昨夜から泊っているのでおもてなしのつもりらしい。

其の時突然大きな音と共に家が崩れ始めた。直撃されたと思った。外に出ようとあせるがバタバタと天井から木が落ちてくる。みんなで名前を呼び合い頭をかかえるようにしてやっと外に出た。母、妹(二女)、友達、私は血だらけの顔を防火水槽の水で洗う。まだ父が姿を見せない。心配していると上前歯が全部折れ、左腕を右手でかかえるようにして現われた。骨折している。仮に三角布をしてあげる。妹(二女)は足が腫れ私は左腕が腫れているので板木を探して副木をする。みんな揃ったので町内での避難場所可部線の安村へ、着のみ着のままで歩き出す。三〇分位歩いた所で大きなトラックが急にとまった。父は重傷だからといって可部の病院へ連れて行くという。すでに何人かの重傷らしい人が乗っていた。何だか心細い気がしたが診て貰えるので有難いと思った。おひる頃飛行機が南方向より低飛行で近づいてきた。操縦士が小さく見える。機銃掃射かと思ったが偵察機のようなので安心して又歩き出す。陸軍三滝分院までくると雨が降り出した。そくざに雨除けをつくりうづくまって雨のやむのを待った。三滝町の御婦人がお握りを一こづつ下さる。

朝より何も食べていないのに食欲がない。食べなければ元気が出ないと、はげまし合いいただく。其の時一人の青年が手の皮をぶらさげた様な格好で近づいて来た。市内から逃げてきたとかよく目がみえないといっていた。元気づけてあげると長束方面へ歩いていった。

青年より市内の様子を聞き、始めて広島市内に大型爆弾が落ちた事を知る。妹(二女)はどうしているか心配になる。長束までくるとあたりは暗くなり始めたので知り合いの家の竹藪でお借りしたカヤをつりねむれぬ一夜を過す。高台なので市内が一望出来る。全市まっ赤な火の海で一晩中燃えつづける。

八月七日晴。ぞろぞろと市内から命からがら逃げてきた人達に混って歩き出す。やっと避難場所安村へ足をひきずりながら着いた。往来をゆきかう人の中から父と妹の姿を探す。夕方父と再会。嬉しくて涙がとまらない。妹はまだ見つからない。父はトラックに乗せられて可部の病院まで連れて行かれたが、火傷(ヤケド)の患者が多く後廻しにされ中々診てもらえないので長い道のりを又後戻りして江波にある三菱病院まで行き骨折をなおしてもらった。父は大変疲れている様子だった。帰り妹(三女)の居場所を探したが分らなかったそうだ。我が家は焼けていた。

八月八日晴。投下三日目段原東浦町の友達の家が心配になり友達と二人で安村を出る。横川を過ぎ十日市、紙屋町、八丁堀を経て広島行の電車道添に焼野ヶ原を歩き金屋町の小路に入り段原東浦町に着く。(一)横川では家の門を出ようとして死んでいる女の人(二)横川橋?では両側に多くの人が並んで寝ていた。「兵隊さん水を下さい」と弱弱しい声でいっている人達に兵隊さんは水を少しづつ与えていた(三)紙屋町では馬の死骸や電車の乗車口で死んでいる人(四)一つの防火水槽に何人も顔をいれて死んでいる人達(五)稲荷橋?のたもとでは兵隊さんが長い棒の先に鉤のようなもので川から水ぶくれした死体を引揚げて山のように積み、油をかけてやいていた。こんな地獄を見ながら、みんな黙々と歩き、日中まっ黒に日焼けした顔をして目的地に急いでいる。段原東浦町まで四時間位かかったように記憶している。家は全壊でやけていなかったのが不幸中の幸である。友達のお姉さんはお父さんの会社が海田市なので、遠いけど海田小学校に避難して治療をうけていると近所の人から聞き急ぐ、海田方面に行くトラックに乗せてもらい小学校に着いた。教室も廊下も避難者でいっぱいでやっととおれる位の廊下のまん中に入っていく。お姉さんは大勢のヤケドの患者の中から見つけた。顔は火傷(ヤケド)で蛆が湧いていたけど話すことが出来安心した。運動場では死体をやく匂いが一晩中していた。

八月九日晴。朝早く友達と別れ一人で来た道を安村まで帰る。

八月一五日晴。終戦を聞く。妹達、学徒動員は全員被爆死と聞く。一二才という短い生涯をとじた。六日の朝一度出掛けて忘れ物をとりに帰ったとき「今日は休みなさい」といったのに─強引に休ませたらよかったとくやむ。

八月二四日晴。打越町のバラックに帰る。其の頃よりみんな下痢になやむ。九月に入って歯茎から血が出たり原因不明の紫色のあざが足に出来たりしたが、いつの間にかなおった。副木の先で左腕の皮膚をいためたのがもとで中々なおらなかった傷は今でも残っている。終り。
  

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