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被爆体験について 
松原 綾子(まつばら あやこ) 
性別 女性  被爆時年齢 37歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は先日満八八才の米寿の祝い日でした。亡き主人にお仏だんで感謝の言葉をのべ、般若心経を涙しつつ上げたのでした。息子一家の案内で祝いの食事を招かれて、たのしい一夕を過しました。

被爆から五〇年経過して、長かったような、アッという間の出来ごとでした。一・三〇キロの地点で、たった一発の核爆発の恐しさは到底筆舌につくせるものではありません。一発で一面真暗くなり、明るくなった時の驚き。建物は全部ぺちゃんこで、一列に並んで建物疎開の瓦おくりをしていた人々は、どこへいったのか、従姉妹はどこへ?皆吹き飛ばされたり、家の下敷になってしまったのか。私は木の陰になっていたのか、他に女の人一人で、私に奥さんひどかったわねー。という。その人は体にわずかに、わかめをつけている感じで、ぺたんと地面にすわっていました。私は白いブラウスを着ていたので反射でボロボロにならなかったようで、でも腕や背中は大きくさけて怪我もしていたが、痛さを感じないのです。兎に角家に帰りたい。屋根の上を歩いて、つぶれた借家にかえっても財布も出せないし道路にしゃがんでいた。さっきまで屋根の上で瓦を梯子の人に渡しておられた組長さんは頭がちりちりするといいながら家の下敷になっている奥さんに子どもはどうした。奥さんは「外へ遊びに出たままです。私も外へ出たい。何とかして下さい。」今出してやる。といいつつ男の人をやっと連れて来ても二人や三人の力で大きな梁などのけることも出来ず、男の人も自分のことが一ぱいで、どこかえ行ってしまう。あれから奥さんはどうなさったか、いつまでも心に残っていた。私は顔やのどがちりちりする。そのうち、あちこちから煙が出て火事になるらしい。兎に角風上に逃げようと、文理大グランド(ここにも重病人)から御幸橋を渡って(橋の上も一ぱいの体の動けない人、亡くなった人)そこに軍隊のトラックがあり、兵隊さんはこれにのれといって抱き上げて、のせてくれましたが、誰かが似ノ島に行くんだ、といっていたので、似の島では帰りたくても帰れない、と思って急いで降りたがこんなところにも運命の別れ道があるのでしょう。あの小さな似の島では大勢の人々が殆んど亡くなった由、後で知りました。またとぼとぼ歩いて、もうこの時は手で目を開けないと見えない程、顔中はれて、やっと宇品近くの楠那小学校収容所に行く。兵隊さんが二階の重病人室に入れてくれる。それから高熱が続き、うわごとをいって、つらい毎日でした。一週間そこにいて、郷里近く方面にトラックが出るとのこと。それにのせて頂き実家へは連絡がついたらしく、翌朝早く父が迎えに来てくれまして、涼しい我が家に帰れて、うれしいのみでした。

二九年春、再び東京に参りましたが、体がだるく、日赤病院で骨ずいの検査、白血球二、二〇〇、肝臓がはれているし兎に角横になっている日が多く放射能を吸っていたためでしょう。大体普通の体になるのに、二〇年かかりました。

一、隣組瓦おくりの一しゅんに、やみの中よりかすかな人声

二、従姉妹ともに並びしに姿なし帰らぬ人となりおりにけり

三、我もまた死線をさまよいうわごとの、白々なりしを生かされており

そまつな短歌
  

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