広島湾沿線も敵艦載機の空襲が激しく成り本土決戦の様相を呈してきた。昭和二〇年八月六日早朝警報が発令され間もなく解除された。私は、七時過ぎ下宿から応援公用に出張する。目的地に入ったとたん体が吹き飛され壁に叩きつけられて、頭がボオーとして意しきがなくなり四―五分たって体全体を動かしたがどうやら立ち上がることが出来る。早速次の空襲をさけて戸外に出る。まだ家屋の倒壊だけで火災が発生していない。急いで勤務先の船舶練習部(宇品)に戻る。電車道路に出たが建築物の倒壊やら電柱等の障害で思う様に進めない。その内に各所から被災者が集って来た。御幸橋のたもとに来ると多勢の負傷者が橋のたもとに集まり髪が焼け顔が焼きただれ体じゅういたるところが火ぶくれてそこが破れ皮膚がぼろきれのように垂れさがり半死半生の動く力もなく助けを求めている被害者が橋のたもとをうめていました。
軽傷の私も重い脚をひきづり昼すぎ勤務先に到着する。一晩中市街の中心部は火炎に包れ赤々と燃えている。被爆者の状況がちらつき寝れない一夜であった。七日から救援活動が開始され街の中心部にある焼き残った銀行の建物が救援本部の指揮所に当てられ、私も指揮所の一員として勤務することに成り七日早朝出発する。救援部隊として宇品地区にある船舶部隊がこれに当てられ、私も各地区の救護所を巡り情報収集に任じる。街の中心部には道路両側の足の踏む場もないほど死体がたおれている。繁華街にある福屋百貨店の内部はすっかり燃えきってがらんどうだった。各階には軍の施設が多かったので包帯姿の兵隊さんがぎっしり収容されていた。横の空地では次々と遺体が運び出され夜るになると荼毘に付されている。又言葉にならないうめき声が部屋に充満し、ひん死の傷者ばかりである。私もすっかりその晩から病人になり原隊にもどることになる終戦の日まで床についた。それ以来第一線の状況がとだえ九月中旬に郷里(新潟)に帰省する。
乱筆にて浄書してありませんがこの程度で。
帰省した後も後遺症で長い間床につく。
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