昭和二〇年八月六日広島で当日空襲警報解除になり兵舎に戻ると同時に凄まじい閃光が走り建物は風圧により破壊されました。私はとっさに藁布団の下へ潜った事で幸い命拾いしました。其れから時間がたつにつれ市民の人がぞくぞくと列をなして兵隊さんの所に救いをもとめて来ました。それは皆んな被爆に依るやけど。顔、手から皮膚が垂れ下りそれは生きじごくそのものでした。それから私達は倉庫を解放してかますの草を切り開いてコンクリートの床へ敷きつめてそこに収容。薬もなくなにも手当する事が出来ず死を待つばかりの状態でした。ほとんどの人が兵隊さん水下さいと哀願しておりました。中隊長から水をやるなと言れておりましたので水をやる事が出来なかったのですが見廻りしておった時屈強な男性から足をつかまれ必死になって水を呉れ足をはなさないもんで一寸待って呉れ足をはなしてくれないか水を持って来てやるからと言ってはなして貰い水をコップで持って来てやりましたら本当にうまそうに飲み終ると事切れました。今考いますと其の時水を上げて良かったと思っています。まつごの水を呑んであの世に旅立って行ったんだなあと思います。
それからもどんどん死で行く人を空地に穴を掘って附近から建物のこわれた木材を持って来て其の上に死体をのせ油をかけて焼いたりする毎日でした。放射能を浴た戦友などは一週間位して熱が四〇度位出て頭の髪が全部抜け落ちてなくなりました。
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