当時、私の家族は母五十二才、姉十六才、私十四才の三人家族だった。兄は海軍に応召、妹は学童疎開で田舎の親籍に預けていた。母は鷹匠町(七百米)の自宅に、姉は住吉橋の郵便局(一.五キロ)、私は翠町の女学校(三.八キロ)で被爆した。
多くの級友が怪我をした中で、私ともう一人の友人と二人だけ無傷だった。怪我をした友人を県病院に連れていき、自宅まで届けて、帰宅を急いだが、御幸橋まで来てそこから先は燃えていた。橋の上で何時間待ったか、やっと通れるようになり、まだ両側が燃えている中を、電車道を必死で歩いた。
日赤当りまで来るともう火は納まって、多くの人々が道端にうづくまり、ころげ、〝日赤に連れてってー〟と私たちに頼んでいた。〝水をくださーい〟。私は〝どうすればいいの、こんなに沢山の人をどうやって日赤へ連れていくの、私は早う帰らにゃあ、母が待っとるけえ〟心の中でそう叫び乍ら必死で逃げた。これは何時迄も私の心をせめた。夢にまで見た。今でもあの人達に申訳けなさで一ぱいである。
私は家に帰りたい。母のことが心配で、その日のうちに誰も通っていない紙屋町から相生橋に向けて、折り重なる死体や散乱している物をよけながら相生橋までたどり着いた。何と三六〇度ぐるりと見渡せる程建物は何もなかった。もうだめだ、私の家も焼けている。橋の上に座り込んで暫く友人と泣いていた。
それから避難先の安佐郡川内村に向かった。十日市まで来た時に、足を怪我して歩けないという中学生に出会い、安佐郡山本村まで連れて帰って欲しいと頼まれた。丁度川内村に行く途中が山本村という気安さから引受けた。しかしそこから六キロは歩かねばならなかった。
中学生に肩をかしてゆっくり歩き、横川駅の救護所で応急手当をしてもらって更に歩き始めた。新庄橋を渡る時、三滝の川原には避難して来た人達がうごめいてみえた。山本の彼の家に着く頃はとっぷり日も暮れていた。家の人達に大変よろこばれて、その晩は彼の家に泊めてもらって、次の朝川内村に向けて出発した。彼は一晩中痛がってうめいていた。広島市内の空は真赤に焼けて一晩中燃えていた。私は殆んど眠れず母や姉を思い泣いていた。朝食をいただいて川内村に出発。そこで毎日鷹匠町に向けて出るトラックに乗せてもらって、みんなでみつからない人を捜しに行った。
九日、姉が訪ねて来て再会。二人で又トラックに乗り母を捜しに出かけた。相生橋の橋の下、ドームの中、わが家の焼跡、死んでいる沢山の人を一人一人みて歩いて一日がくれた。帰りのトラックに乗り遅れて、二人で歩いて十日市、寺町、横川新橋まで来た時、仮収容所に寝かされていた母に再会、嬉し涙にくれた。
十一日、汽車が通るというので、佐伯郡宮内村にある母の実家に向けて出発。母を背負って姉と三人で行った。母の容体は悪くなるばかり。母は殆んど怪我をしてなかったが、家の下敷になり這い出したそうで、おまけに放射能をたっぷり浴びていたせいだろう。十四日の午後二時半、海軍に行っている兄を気遣い、残していく三人の子を頼みます、たのみますと繰返し言い乍ら、死んでも死に切れないような思いだったろう。なかなか息が切れなかったが遂に死んだ。
戦後兄が無事復員、兄妹四人の生活は筆舌につくし難く辛く苦しいものだった。
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