あのいまわしい原爆が投下されたときは、旧制中学校(山陽)の三年生でした。学徒動員で、市内舟入川口町にある桐原容器という軍需工場に動員派遣、作業中で八時一五分の落下したその時、工場の建物の下敷になり圧死寸前でしたが何とか、その場からのがれて、わが家広島市元柳町四三番地にとむかいました。
工場の下敷になり、足を負傷し、手からも血が流れているそのままの状態で、顔は埃と汗で真黒、シャツは血みどろでボロボロに破れ途中出会う人々はそんな恰好、もっとひどく手、足の皮が「ずべり」とむけて垂れ下り、それが放心したようにもたもたと歩いている人達が沢山歩いており、まるでお化けの行列のようでした。
途中の道路はまるで、ジャングルを歩くようで、そのすごいこと、とうてい言葉ではあらわすことの出来ない地獄の様相でした。
わが家まで約二キロ。家の近くになると流石、爆心地(現平和公園内)に近いだけあって、火の手があがっておりわが住んでいた家の近くには立寄ることができず、空は火煙のため雨天と同じく真暗になっており、とにかく、もうわが家に近づく事もできず、新大橋(現平和大橋)付近で何もできず、この火勢にただ驚きと、こわさで右往左往していました。
そこに近所の方がやはり、家族の安否を気付っているのに、遭遇して、一緒に行動をとることにしました。この元柳町の緊急避難先の佐伯郡平良村に行く事をその場で話合い、兼本さん、福田さん達と一緒にでかけました。どうせ、焼死、行方不明とは思いましたが、何とかして、消息をたづねたいその一心で燃えさかる、わが家を後に、延々と歩き続けました。今考えると、ほんとうに無駄なことでしたがそのときは、それでもそうするしかなかったのです。
せっかくたづね歩いた母、兄、妹達はみんな家の下敷になって、死んでいました。
しかし、お骨を確認しないことにはやはり一るいの希望もち続け、それから、火災が落着き骨を発見するまで、あちこちの収容所(国民学校等)を探しまわりました。
負傷した足を引きづりながら、毎日、とにかく、歩き廻りました。妹のお骨はとうとう発見できませんでしたが、母、兄の骨は焼あとから探しあてました。父を戦争で失い、又、母を原爆で亡くして、疎開先から戻った弟と二人、これから、ずっと苦労の連続でした。ほんとうに長い長い苦しみの一生でした。戦後五〇年、ほんとうによく、生きてきたと、思われます。ノーモア、広島、長崎、世界の平和を祈っています。
以上
|