昭和二十年八月六日、あの忌々しい忘れる事の出来ない原爆投下の日の事を記す事にする。両親の物を整理していた時、一冊の帳面を見つけ開いて見ると、原爆投下の前日より投下後の事が書き残されているのを読み、自分も忘れないうちに書き残す事にした。
自分はその時十五歳、広島市立商業学校に通学していた。と言っても戦時中の事、学徒動員で観音の三菱製機に二年生の時から行き、ロケットの羽根や一人乗り人間魚雷の胴体等を作っていたが、或る日山中女学校の生意気な女生徒を殴って先生に言いつけられ、下級生達が廿日市の平良村の山合いに建設中の分工場に行かされた事が幸いした。もし観音に残っていれば死ぬか大怪我をしていたかも知れない。何が幸いするかわからない。
朝六時頃家を出て横川まで歩いて行き、市内電車で己斐まで行き、宮島線に乗り替え廿日市駅まで行く。途中警戒警報になったが、此処まで来たのでそのまま分工場に行く。そして問題の八時十五分、丁度朝礼の最中にピカーと光り暫くしてドガーと言う音とゴーと言う音と暖かい爆風、と同時に窓に座っていた山陽中学の生徒が吹き飛ばされた。自分は一度呉の長浜で、母と一緒に兄貴の面会に四国に行く時、空襲に遭っているので、工場の中にいては危いと思い、すぐ裏山に皆んなと一緒に逃げた。山の上から広島方面を見ると雲のようなものが、もくもくと湧き上がっている(きのこ雲)。広島の方で爆弾が落ち、舟入のガスタンクでも爆発したのだろうと思った。
先生が仕事に戻る様に言われたので仕事に掛った。山陽中学の生徒が広島で何事が起こったのか見に行く事になった。その生徒が戻って来て報告によると、草津より向こうには行けない。消防団の人に聞くと己斐、土橋方面は火の海との事、広島に爆弾が一発落ちたとの事。それを聞いて小生は思った。今日母は建物疎開で土橋に行ったのでもう死んだと思った。
昼過ぎ頃から平良村に怪我をした人達が来たとの事、もう仕事どころでなくなり帰宅する事になり急いで廿日市駅まで行くと電車は動いていない。線路伝いに歩いて帰ることにする。途中井の口まで帰った時、トラックに沢山の人が乗り、皆な顔は黒く服はボロボロ、歩く人も皆な同じ、何があったのか、わからない。
草津まで戻ると警防団の人が市内には行けないとの事、それなら山伝いに帰ることにする。下級生三人と一緒に山を登ったり下ったりし横川の山手まで帰ってみると、寺町、横川、三篠の方も火の海である。
妹や弟はどうしているか、家はどうなっているか心配になって来た。山手川(今の放水路)の土手に降りて見ると川筋に死んだ人、真黒い顔をした人、川の中にいる人が沢山いた。もう夕方になっているので早く家に帰りたい。走って帰ると二階は隣の家の上に倒れ、店もめちゃめちゃ。廻りに人影もない。裏の自動車の会社(今の日産自動車)も焼けている。妹、弟はどこにいるのか、建物の中を見たり声を掛けたりしたが返事は無し、薄暗くなるし、竹藪に人が沢山いるのでそこに行く事にする。途中近所の人に(誰れか忘れた)出会った。お母さんは竹藪にいるとの事、走って行き暗い中をさがす。すると向こうから勝ちゃんと呼ぶ声を聞き母がいたのでほっとした。今日は土橋に行かなかったのかと聞くと、氷水の接待で八時過ぎに家を出て三篠二丁目で被爆したとの事、それで助かった、良かった。妹弟は安に行ったとの事。竹藪には近所の人、知らない人で一杯である。
夜中に警防団の人が横川の信用組合の前で炊き出しのむすびが田舎から来るので貰いに行けとの事。広子ちゃんと一緒に歩いて行きむすびを貰って帰りみんなで食べた。
余り思い出したくないが忘れない内に書く。
平成八年三月五日記 勝幸
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