●当時の生活
当時、私は十二歳で、県立広島商業学校の一年生でした。六人きょうだいの長男で、下に、天満国民学校に通う長女(五年生)、次男(三年生)、次女(一年生)と、まだ学校へ上がっていない三男、赤ん坊の四男がいました。父は軍人で戦争のため朝鮮へ行っており、次女は疎開をしていたので、上天満町の自宅には、母のミドリと子ども五人が住んでいました。
私の通う県立広島商業学校は、元々は江波町にあったのですが、軍の施設となったため、私が入学したときには皆実町一丁目に移転していました。学校では、授業をすることはほとんどなく、その代わりに、学徒動員で、防火帯をつくるための建物疎開作業に行っていました。焼夷弾が落ちても火事が広がらないよう、縄を引っ掛けては家を倒して、道を広げるのです。朝八時には登校し、朝礼が終わると疎開作業現場である宝町へ通う日々です。通常は九時始業でしたが、夏時間のため一時間早く学校へ行っていました。朝礼では、軍服を着て剣をぶら下げた教官から「とにかく戦争のために頑張れ、頑張れ」と戦争の話ばかりをされ、体育の時間には「やーあ、やーあ」と竹槍を習う、そのような時代でした。
●八月六日
この日も八時頃に、同級生二百名くらいが学校へ集合し、順次、疎開作業の現場へ向かいました。先発隊の私の班が現場に着いてまもなく、B29が白い飛行機雲を引きながら飛んでくるのが見えました。当時は毎日のようにB29を見かけましたが、いつもは日中なのに、この日に限っては朝早くに飛んでいました。空が澄みわたり、飛行機雲が朝日に映えてとてもきれいに見えたことが、今でも印象に残っています。そのとき、B29から落下傘が落ちてきたので、故障か何かで乗組員が飛び降りたのだろうと思って見ていました。次の瞬間、閃光が走りました。「ピカドン」と言われますが、「ドーン」という音は全然聞こえませんでした。
爆風によって家が倒れて、壁土や煤などが舞い上がったため、あっという間に辺りは真っ暗闇になりました。そのときは、原爆ということが分かりませんから、あまりにもひどい状況に、学校の近くにあったガスタンクが爆発したのだろうと思いました。
私は建物の下敷きになり、首と腰を強く打ち、よく見ると左半身には顔や腕、足にひどいやけどを負っていました。自宅の前が病院だったので、とにかく家まで帰れば治療してもらえると思いました。その一心で家へ帰ろうとしましたが、市内は火の海で通れません。まだ子どもだった私は、仕方なく大人たちが逃げる方向へ付いていきました。あちこちで焼けた死体がゴロゴロしている中を、比治山の下を通り、広島駅や二葉山の方をずっと山に沿って逃げました。逃げる人は皆、服はボロボロで、やけどした手をぶら下げて、ゾロゾロ、ゾロゾロと歩いていました。途中、牛田では川の中を歩いて対岸に渡り、安佐郡古市町(現在の広島市安佐南区)まで逃げました。現場には同級生が一緒にいましたが、逃げるときは一人でした。自分一人が逃げることに精一杯でしたし、周りを見ても誰がいるのか全く分からない状況でした。
古市まで逃げたとき、「黒い雨」の夕立に遭いました。私は、この「黒い雨」は、爆風で舞い上がった壁土や煤などに泥が混じり、南からの風に乗って北へ流れて黒い雨になったと考えています。
火がある程度落ち着いたので家に向かい、ようやく上天満町の自宅に戻り着いたときは既に夕方でした。家は焼けてはいないものの、全壊でした。家族を捜しましたが見当たらず、皆が帰ってくるのを待っていました。しばらくして、家族が福島川の土手に避難していることが分かり、そこで家族と再会することができました。そのとき周りを見ると、土手は避難したたくさんの人で埋め尽くされていました。
●家族の被爆
母と次男、三男、四男は、上天満町の自宅で被爆しました。次男は家の外にいたのでしょうか、落ちてきた瓦で頭を大きく切っていて、母が着物の帯を巻いて応急手当をしていました。次男のほかは、皆けがをしていませんでした。
すぐ下の妹の榮子は学校が夏休みだったので、その日は朝から、薪にするため建物疎開の現場で出る木切れを拾いに出掛けていました。妹がどこで被爆したのかも分からないまま、私は翌日から一週間ほど、一人で市内の焼け跡を歩いて捜しました。その間に見た街の様子はひどいものでした。人間の死体や荷物を引いていた馬や牛の死骸がゴロゴロしています。相生橋付近では、爆風で飛ばされた電車が線路からはずれ、焼けて鉄骨だけになっていました。天満川では、水を求めて逃げてきた人の死体が水面いっぱいに浮かび、潮の満ち引きで上へ下へと流されていました。
一週間後、妹が己斐国民学校に避難していることが分かったので、私は妹を迎えに行き、一緒に家に帰りました。妹はやけどもけがもしておらず、全く無傷に見えましたが、その後、脱毛、斑点、出血など、いわゆる「原爆症」と呼ばれる症状が出て、一か月後に亡くなりました。妹の遺体は、広場へ行って木を積んで火葬し、お墓に納めました。当時は、遺体をあちこちで火葬していましたが、身元が分からない人や、身元が分かっていても遺骨を引き取る家族がいない人もたくさんいました。それだけ悲惨な状況でした。
●けがの状況
被爆した時に左側から熱線を浴び、左半身は肌の露出していた顔や腕にやけどを負いました。足は、厚みのあったゲートルの部分は残っていましたが、はいていたズボンは皮膚に焼き付き、母がそれを取り除くのにとても苦労していました。当時は、治療といっても薬はなく、母が食用油をあちこちで探しては塗ってくれました。やけどの痕が水膨れになった所は、松の葉で破っては中の汁を出しました。同じ場所で被爆し首にやけどを負った友人は、ケロイドが残っていますが、幸い私は傷痕が残りませんでした。また、爆風の衝撃で鼓膜が破れたのか左耳は全く聞こえなくなり、医者からはもう治らないと言われました。建物の下敷きになり強く打った首や腰は、今でも季節の変わり目には痛みが出て、起きるのも寝るのもつらいです。
三年前には、左目が網膜剝離にかかり、その時、白内障にもなっていることが分かりました。白内障は原爆症認定の病気になっているので、国に申請していましたが、左目の手術をする際に白内障の治療もしたため、白内障は治癒したとして認定はされませんでした。原爆症と認定されるには現に治療が必要な状態にあることが条件となっているためです。
被爆が原因で苦労もありましたが、幸いにも命にかかわるような大きな病気などはしていません。爆心地から一・五キロメートルほど離れた場所で被爆して、黒い雨にもあいましたが、今も放射線の影響は出ていません。白血球や赤血球にも異常がありません。やけどによる水膨れの汁を出したり、夏の暑さの中、妹を捜し回って汗をいっぱいかいたりしたので、放射能の影響を体の中から出すことができたのだと思います。
●被爆後の生活
被爆後も、上天満町に戻って暮らしました。炊事場だけを残して全壊した家の跡に、拾ってきたトタンなどの材料でバラックを建てました。焼けて穴の開いたトタン屋根からは太陽や月が見え、冬には雪が降り込むような住まいです。被爆から一年くらいは、このような家に住んでいたと思います。
当時は食べるものもなく、着物などを田舎の農家へ持っていっては、米と交換してもらっていました。焼け跡でカボチャやサツマイモ、ジャガイモなどを作り、食料の足しにもしました。今のような白い米は当分の間食べられず、米粒が数えられるほどしか入っていないおかゆは、水分が多いので、反射して顔が映るくらいでした。
十月頃、学校がいつ始まるのか知りたくて、様子を確かめるため通っていた学校へ行きました。そのときに、無事であることが分かっている同級生が半数くらいしかいないことを知りました。しばらくすると、終戦により軍から返還された江波町の校舎で学校が再開されました。江波町の校舎は鉄筋コンクリート造りで、原爆でも倒壊しませんでした。再開したとはいえ、教科書もノートも鉛筆もないのですから、勉強といっても先生が黒板に書いたことを頭で覚えるだけです。
父は九月に復員した後、生計を立てるため、以前からしていた木工職人の仕事に戻りました。両親は、長男であり成績もよかったことから、私を進学させたいと思っていたようです。しかし、下に弟や妹がたくさんいたので、生活をしていくために、父と同じように職人の道に入りました。丁稚奉公で五年修行し、礼奉公で一年働いた後も、親方に引きとめられて長年にわたりそこで働きました。
結婚については、被爆者ということで弊害もあり、破談になったことも何度かありました。その後、私のことを理解してくれる人があり、二十七歳で結婚しました。妻の家族は被爆していないので、ある程度反対もありましたが、説得して理解してもらうことができました。
●忘れられない話
当時、九月頃のことですが、こんな話を聞いたことがありました。被爆後、似島にはたくさんの被爆者が収容されて、そこで多くの方が亡くなりました。トラックや荷馬車で運ばれてくるのは、男の人か女の人かも分からないような、焼け焦げた死体ばかりです。夏なので、放っておくと腐ってしまい、臭くてたまりません。あまりにも数が多いので、一人ひとり火葬することができず、死体をボンボンと山積みにして焼いたそうです。火葬した後、穴を掘って埋めるところまで手が回らず、焼けたまま放置された状態になっていました。似島の海岸に行くと、そのような灰になった遺骨をすくっては、大きなふるいに入れ「えっさ、えっさ」と声をかけながら何かを探している人たちがいたそうです。それは、灰の中から砂金を拾うような感じで、焼け残った「金歯」を拾っていたのです。その人たちは、「いい商売になる」と話していたそうです。当時は、遺体の埋葬もできないくらいに、たくさんの方が亡くなったということです。
●同級生への思い
毎年八月には、母校の県立広島商業学校の同窓会がありますが、私は一度も参加したことはありません。同窓会で集まって宴会やゴルフをするのですが、原爆が落とされ多くの同級生が犠牲になった八月に、私はとてもそのような気持ちにはなれません。みんなに会いたいという気持ちもありますが、今年も行きませんでした。返信用のはがきには、なぜこの時期に宴会ができるのかと書いています。それでも毎年、八月の同窓会の案内状が届いています。
●平和への思い
新聞にも悲惨な写真や体験談が載っていますし、子どもたちも学校で原爆について学んでいるので、みんな核兵器の恐ろしさを知っていると思います。だから、これまで家族や周りの人に被爆体験を話したことも、自分から話そうと思ったこともありません。ただ、核兵器に反対する思いは強く持っています。
今回体験記を残すことにしたのは、これまでの体験記には書かれていないけれど、私自身が知っていることや思っていることを少しでも残せたらという気持ちになったからです。この体験記を通して、亡くなられた方がとても多かったということや、悲惨なことがあったということを伝えることができればと思います。 |