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戦争と私の家族 
武藤 祐康(むとう ゆうこう) 
性別 男性  被爆時年齢 29歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1986年 
被爆場所 広島市上流川町[現:広島市中区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私が小学校の三年生だった時、広島に原子爆弾が落とされました。そのため、私の家族のうち、二人は家の下じきになって生きたまま焼きころされ、三人はなんとかくずれた家からはい出して、命だけは助かりました。その時のことをお話しします。

昭和二〇年八月六日午前八時すぎ、朝食をすませた私の家族は、それぞれいろんな事をしていました。おじいさんは一階の茶の間で新聞を読み、おじさんはやはり一階でのんびりしていました。おばあさんは庭のはしにある便所へ行き、お母さんは二階のへやをそうじしていました。妹(その時四才)は一階の窓ぎわのミシンの上にすわっていました。

ちょうどそのとき、原子爆弾が広島の上空ではれつしたのです。家族のいる場所で五人の運命が決まりました。

一番からだのじょうぶなおじさんと、まだまだ元気なおじいさんが、たおれた家につぶされてにげだすことができずに、生きたまま焼きころされました。おばあさんの話しによると、おじいさんの声がしたところを少しほると、うで時計をはめた左手だけがのぞき、「助けてくれ」とうめいていたそうです。おばあさんがひっしになって助けようとしても、なかなか重い柱などがのけられません。そのうち、まわりがもえだしました。だんだんあつくなってきます。近所のおじさんが、「このままじゃああんたも焼け死にますよ。早くにげなさい。」と、むりやり手を引っぱって、つれてにげてくれたそうです。もう一人下じきになったおじさんは、「重い物がからだの上にあって、動かれんのじゃあ」といっていました。もちろん、このおじさんも助かりませんでした。数日後、焼けあとに行ってみると、骨だけがのこっていました。さぞくるしかったでしょう。

おばあさんは、ちょうど便所から出たところでした。庭に面した手洗い場で手を洗っていますと、前のビルのかべにピカッと光があたって、そのあと、少しきぜつをしていたらしんですが、前が庭なので、おしつぶされずにすんだのです。そのおばあさんも、数年後、私の目の前で大きなため息を一つして死にました。そうしきの前、ABCCの人がおばあさんをかいぼうさせてくださいとたのみに来られましたが、ことわったそうです。おばあさんが病気でねているとき、ゆうれいを見たと言っていました。夜ねていると、ふすまに丸く月のように光るものがあります。それをゆうれいとは気づかず、なにげなくふすまを開けてまたしめると、今まであった光るものはありません。ふしぎだと思っていると、ドーンと音がして、また同じ場所に、光るものがゆらゆらと出ました。おばあさんは、おそろしかったそうですが、ひっしにおねんぶつをとなえると、その光るものは消えたそうです。

つぎに、二階でそうじをしていたお母さんは、くずれた家の下じきになりましたが二階でしたので、やねのかわらなどを少しのけただけですぐ外に出られたそうです。でも、首やかたにガラスがつきささり、血だらけになっていました。四〇年たった今、まだまだ元気でカラオケなどをたのしんでいますが、からだには、まだガラスが入ったままかもしれません。

つぎに、その時四才だった私の妹のことです。一階にいましたが窓ぎわでミシンのそばにいたことで助かりました。なぜかというと、ミシンの鉄の足の下に入りこんで、つぶされずにすんだからです。妹は、せなかにちょっけい七センチぐらいのやけどのあとがのこっています。その妹も、今四〇才以上になっています。そして、三人の子どもの世話など元気にがんばっています。

原子爆弾が落とされた時、私(小学三年生)は集団そかいで、山県郡千代田町に行っていました。花田植えで有名なところです。八月六日はもちろん夏休みですから、学校へ行かず、みんなとさんぽに行きました。そのとき、とつぜんピカッと光りました。原子爆弾がはれつした時の光です。ちょうど、カメラのストロボを光らせたようでした。みんなはびっくりして、さっと草の上にからだをふせてかくれました。だれかが、「スパイがしゃしんをとったぞ。」といいました。

それからしばらくして、広島へ帰ることになりました。でも、台風のあとで、太田川橋が流されたとかで、自動車では帰れません。それで、何十キロメートルも歩いて帰ることになりました。少しばかりのおにぎりをかばんに入れて、二日間で帰るのです。大きな六年生はどんどん歩きます。さほどじょうぶではない私は、どんどんおくれていきます。一日目の夕方、今、はじダムのあるところの小学校でねむりました。二日目は、はじダムのところから母の待っている広島の三滝の家まで歩くのです。足をひきずるようにしてなんとか家までたどりつきました。さいしょ、げんかんに出むかえてくれたのは、かわいい妹でした。「あっ、おにいちゃんじゃ。」とうれしそうにいってくれました。

さいごに、お父さんのことです。しゃしんでお父さんの顔を知っているものの、ほとんど戦争に行っていて、いっしょにすごした記憶はありません。戦後、ニューギニアで戦死をしたという知らせがありました。いこつは、まだニューギニアのどこかでころがっているかもしれません。戦死だといっても、うえ死にだったと思っています。ときどき、ゆうれいでもいいから出てほしいと思ったり、ひょっこりと、横井庄一さんのように、元気で帰ってきてくれるのではと思うことがあります。

このように、私の家族にも戦争のために不幸がきました。今考えても、はらがたちます。

今、日本は戦争がなく平和ですが、この平和がいつまでもつづいてほしいですね。
(一九八六年六月二四日)

 

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