●被爆前の生活
当時私は十四歳、佐伯郡井口村(現在の広島市西区)にある広島実践高等女学校(現在の鈴峯女子中・高等学校)の二年生でした。学校の近くに河内工場という飛行機の部品を作る工場があり、広島市内に住んでいる者は寮生活をしていました。午前は勉強、午後は工場で働いていましたが、鍬を持って畑を耕すこともありました。私は寮での生活で体調を崩してしまい、昭和二十年七月下旬、爆心地から約二キロメートルの広島市楠木町三丁目にある自宅に戻ってきました。父・津田平治は徴用により山口県宇部市の炭鉱に行っており、母と二人の生活でした。母・ふいのは、隣組からくじ引きで三滝町の広島第二陸軍病院三滝分院にかり出され、戦争でけがをした兵隊さんの食事などの手伝いをしていました。他の人は建物疎開の作業に従事したそうです。
●被爆時の状況
八月六日は自宅から学校に戻る予定の日でした。その日の朝、歯医者に行こうと思い歯を磨いていました。警戒警報が出たので、あわてて防空壕に入りましたが、すぐに解除になりました。顔を洗って、服を着替えようと思っていたところ、近所の人の「B29が通りよる、B29が通りよる」という声が聞こえたので、タオルを首にかけたまま外に出ました。近所の人が空を指差すので、私も空を見ていました。近所のおじさんもおばさんも同じように空を見ていました。空には銀色のピカピカした小さいものが飛んでおり、「ああ、B29、B29だ」と言ってみんなで指差して見ていたのです。この後のことは覚えていません。自分が何か大きな熱い熱い風船の中に入ってすごい力でパーンと割られたような強い衝撃を受けました。何があったのか、何がどうなったのか、それすらも分かりませんでした。
しばらくして気がつくと、暗闇でした。その時一筋の光がサーッと通り、周りが見えるようになりました。私は、崩れた瓦に膝まで埋まっていることに気がつきました。足を抜こうとしても、父の大きな下駄を履いていたので、抜くことができませんでした。足が埋まったために、爆風で吹き飛ばされなかったのかもしれません。
しばらくして周りがザワザワしてくると「すぐ早く逃げろー」とか「向こうから火事が、火災が発生しとるから」と警防団のおじさんの大きな声が聞こえてきました。「子どもを助けて、助けて」という声も。
足がなかなか抜けず、その時金子のおばさんが大丈夫かと飛んできて引っぱってもらって、やっと何とか足を瓦の中から抜く事ができました。「登喜ちゃん大丈夫?けがしとるよ」と言われて初めて自分が腕に大けがをしていることに気がつきました。腫れ上がって、骨が見えるような切り口でしたが、不思議と血は一滴も出ていません。私はそれを見てびっくりして、泣いてしまいました。おばさんが頭に巻いていたゴミだらけのタオルをはたいて、私の腕の傷に巻きつけてくれました。そのタオルはほこりとごみがいっぱい付いていましたが、その時はそんなことは気にしていられませんでした。周りはほこりでいっぱいになっていて、皆灰をかぶったような感じでした。興奮していたせいか、大けがをしていたのに痛みは全く感じませんでした。落ちてきた瓦で頭にもけがをして、今も手足や額にその時の傷が残っています。原爆が落ちた時、私は外にいて空を見ていましたが、軒下にいたためか、やけどはしませんでした。後で聞きましたが、外で見ていた人たちはやけどで何人か亡くなられたそうです。
子どもの泣く声に我に返り、私の家の前の荒川さんの子どもで四歳ぐらいだった恵美ちゃんを、荒川さんと金子さんと三人で崩れた建物から引っぱり出しました。荒川さんの赤ちゃんは、おばさんが抱っこしていて無事でした。それからおばさんと赤ちゃん、私は恵美ちゃんの手を引いて新庄町の方へ逃げました。
●避難する途中に見た惨状
楠木町から新庄町に向かう途中、大芝国民学校の辺りの崩れた家の前で掛け布団を拾いました。防空頭巾の替わりに重い布団を頭からかぶって恵美ちゃんの手を引っ張って逃げましたが、布団が重いので途中で捨てました。父の下駄も重いので脱ぎ捨てました。その間大けがをしている人はほとんどいなく、皆、灰の中に入ったようになった人たちが逃げてきていました。髪はボウボウで真っ白で、なぜか顔が腫れて目の周りが白くなっていました。その時は、どうしたのかな、と思うぐらいでした。途中、一人の兵隊さんが木の下に座っていました。近づいて見てみると、腹部に穴が開き、そこから血が噴き出していました。私は、そのようなけが人を見たことがなかったので、びっくりしました。しばらく行くと、六、七人の兵隊さんが居られ、そのうちの何人かの兵隊さんたちが崩れた近くの民家の軒下で背中にてんぷら油を塗ってもらっていました。おばさんと「てんぷらをしていてやけどをしちゃったんじゃね」とわけのわからないことを言いながら新庄町の近くまで行くと、これまで見たこともないような、手を前に突き出した幽霊のような人が大勢ぞろぞろと逃げて来る人たちに出会い、着物はボロボロになっていて、腕から変なものが垂れ、何がぶら下がっているのだろうと思いました。それはもう、言葉で表すことができないような有様でした。さらに歩いて、新庄橋まで来たところで、一緒に逃げてきた荒川のおばさんは実家に帰るから頑張って母の所へ行くようにと別れ、私はさみしさも忘れて、一人で一生懸命、母のいる広島第二陸軍病院三滝分院へ向かいました。非常時には、家族三人そこに集まろうと話をしていました。三滝山の方に逃げて来ると、新庄橋から三滝町に向かう道は、今は川になっていますが、当時は麦畑で麦の切り株ばかりでした。あぜ道を多くの人が行きかい逃げてくる中、すれ違う人は皆大けがをしていました。その時、「飛行機が来た、飛行機が来た! B29がきた、B29が来た!」という声が聞こえ、広い広い麦畑で肥料にするわらと牛のふんを混ぜ合わせた高い山が所々にあるだけで隠れるところがなく皆撃たれると思い、我先にとその肥料の中に身を隠し、私も大人に混じって一つの肥料の山に身を隠し、しばらくすると、「逃げた、逃げた、偵察じゃ、偵察じゃ」という声が聞こえ、みんな「よかった、よかった」と言って肥料の山から出てきました。体中が肥料だらけになり、臭くて私も半べそをかきながら出ました。その時、すごいスコールのような雨が降り出しました。それが後でわかった黒い雨でした。その雨で体中についた肥料を洗い、口もすすぎ、雨も飲んだと思います。多くの人がその黒い雨に遭われたと思います。雨はすぐにやみました。
被爆当時、三滝分院にいた母も、建物の下敷きになっていたそうですが、兵隊さんに助け出されて無事だったそうです。でも、体の中にガラスがささっていて痛そうでした。三滝分院にたどり着いて母に会ったとき、私が亡くなったと思っていたのか「よう生きとった、生きとった」と言って何度も何度も抱き合って泣きました。母は、私の服に黒いものが一筋二筋流れているように見えたようで驚いていましたが、それはあの時の黒い雨のせいだったと思います。
三滝分院では、母が手伝いをしていたこともあり、特別に蚊帳をいただきました。多くの人たちは、蚊帳の外で寝ていましたので、ずいぶんと蚊に刺されたと思います。父も原爆が落ちて三日ほどして宇部から帰ってきて、母と一緒に三滝分院で手伝いをすることになりました。
●広島第二陸軍病院三滝分院付近の様子
私は、手や足に大けがをしていましたので、母が治療してもらうよう軍医さんに頼んでくれたので行ってみると、長蛇の列ができていました。治療しているところをのぞいてみると、大けがをしている女の子を麻酔もなしに手術していて、その女の子は死んだようになっていたのです。私はこわくなって、治療を受けずに戻ってきました。母から「腕を切るようになったら困るから治療に行くように」と何度言われても、私は「絶対いやだ」と言って行きませんでした。翌日、母はオキシドールやヨードチンキなどの薬をもらって来てくれて、私はそれを使って自分で傷を治療しましたが、痛くて痛くて夜も寝られませんでした。
三滝分院の周りには多くのけが人がいて、私たちの蚊帳の周りにもたくさんの人が寝ていました。「水くれー、水くれー」と言っていましたが、水をあげることも勝手に蚊帳に入れることもできないので、私は蚊帳の中に入っているようにと母に言われました。通り道には道を塞ぐようにして倒れ、そのまま亡くなっている人もたくさんいました。その亡くなっている人の体は風船みたいに膨れていました。帽子が横に落ちていて、帽子をかぶっていたところは髪の毛が残っていましたが、そのほかはやけどで皮膚がむけていました。皆その死体の上をまたいで通っていました。分院に向かう山道にも、おじさん、おばさん、子ども、大勢のけが人が山の下まで座っていました。亡くなっている人もいました。生きていても動けない状態でした。ふと座っている人を見てみると、足を指ではじいて白い粒を取っていました。初めはご飯粒のようなものと思いましたが、よく見てみると、その白い粒が動いているのです。それはウジでした。たくさんたくさん、ウジがわいていました。一人ではなくその辺りに座っている人皆にウジがわいていました。
多くのけが人の中に十歳ぐらいの女の子がいました。その子は、顔は膨らみ、髪はほこりだらけで、私に「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お水ちょうだい、お水ちょうだい」、「お姉ちゃん、痛い、痛い」と言って泣いていました。お水をあげることも、どうしてあげることもできませんでした。今にして思えば、あの時、命のある時に名前や住所を聞いてあげればよかったと思います。一週間ほどのうちに、皆亡くなりました。その時は死体を見ても少しも恐ろしいとは思いませんでした。ただ、悲しくて悲しくて泣きました。遺体は、河川敷に大きな穴を掘って焼かれ、多分掘れば多くの人骨が出るのではないかと思います。今でも通るたびに、心の中で手を合わせています。
●被爆の影響
二週間ほど三滝分院にいましたが、その後、大勢の兵隊さんについて高田郡向原町(現在の安芸高田市)の向原国民学校に行きました。病院の手伝いをしていた父母とともに一か月ほど滞在しましたが、向原町でも兵隊さんが次から次へと亡くなっていきました。向原町の農家の人たちにずいぶんとお世話になり、もらい風呂をさせていただいたのを覚えています。ありがたく、感謝でいっぱいです。
終戦後、向原町から楠木町の家に帰ると、家は丸焼けで何も残っていませんでした。家を無くした多くの人たちは西練兵場の兵舎の材木を使ってバラックを建てていました。三篠橋のまん中には大きな穴が開いており、怖いと思いながら材木を取りに行ったのを覚えています。せっかく建てたバラックも枕崎台風で太田川の土手が切れてすべて流されてしまいました。帰ってきてから母と私は、めまいや血便が出るなどの症状が出て大変でした。手のけがもなかなか治らず、痛くてかばんが持てないので母と一緒に広島赤十字病院へ痛み止めの注射を打ちに行き、傷の中にほこりが入っているから切開するよう勧められましたが、断りました。
その後も貧血などの体調不良が続きました。母も六十九歳の時にがんで亡くなり、私も現在、病気を治療しています。何か月も原因がわからず体全体が腫れて、あと一週間遅れていたら今の私はなかったそうです。広島赤十字・原爆病院の片山先生に助けていただいたおかげで現在があります。毎日がとても不安です。本当に原爆は恐ろしいです。
●伝えたいこと
本当は原爆の体験は思いだしたくない、恐ろしい、悲しい体験です。今まで心に封印して、詳しくは誰にも話したことはありません。でも、今の若い人にぜひ伝えたく体験記に残しました。絶対に風化させてはいけません。戦争をして核兵器や化学兵器を使ってしまうと人類が滅亡してしまいます。広島に落ちた、たった一発の原爆でもあれほどの被害があったのですから。戦争は何のためにするのか。国益のため? 国を司る人は国民の安全を守っていただきたいと思います。
今の若い人はわからないと思いますが、テレビドラマなどで見るようなものではなくて、現実はもっともっとひどいものです。大けがをして、帰ろうにも家がない、助けてくれる人も誰もいない。絶対戦争はしてはいけないです。戦争反対を声を大にして伝えたいと思います。
私の母がよく言っていました。「人をいじめたり、たたいたりするときは、まず自分をつねってからしなさい」と。痛いですよね。今の若い人たちには、いじめのこともそうですが、優しい心を持って生きてほしいです。そして、全世界が手をつなぎ、平和な世界が一番だと思います。未来の子どもたちのために、平和、核のない世界が永久に続きますよう念じております。 |