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被爆体験について 
三宅 順子(みやけ よりこ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私の家は広島市中区天神町にありましたが、現在は平和公園の中にあり、市立女学校の石碑が建っている処です。

材木問屋で川沿いに倉庫が二つあり、その前が自宅でした。

一九四五年八月六日朝、母三十八才、姉十八才、妹十才、四才、弟八才、三才の六人が直爆でした。父はその二週間前の七月二十日に病死しました。

其の日は、朝、江田島の切串の桟橋に妹と二人で立っておりました。するとピカッと光って広島に何が起きたのかしらと、その時頭上をB29がかすめて通り過ぎました。又、木の子雲がもくもくと空へ昇って行きました。

切串に一軒家を借りて疎開をしていましたので、一度家に帰り、その日の午後三時頃に、祖母と妹と三人で広島の家に帰るべく、船に乗り、宇品港に着きました。三幸〔御幸〕橋を渡り、日赤病院前、千田町、大手町と電車道を通って、白神社から新橋を渡るつもりでしたが、木の橋なのでとても無理と思い、相生橋に向かいました。黒こげ死体はごろごろ、燃えている電柱をまたいで行く惨状はひどくなる一方でした。

現在のドームの処は電線がからんでぶらさがり、とても恐しくて近かよれそうもありません。そこで紙屋町から護国神社まで行き、そこから引き返しました。宇品港に着いた時はもう夜で、怪我をしている人達大勢の人が避難して来ていました。一晩野宿をしました。明かるくなるのを待って翌朝の船で江田島へ戻りました。

八日に又、同じ道を通って、相生橋を通って、我が家のあった焼け跡にたどりつきました。只あぜんとするばかりです。たくさんあった材木は全くありません。木の切れ端も残っていません。土を堀りおこすと中から小さな骨が出てきました。それを持ち帰りました。数日が過ぎてもまだ皆が帰って来ると思って待っていましたが、永遠に帰って来ません。

核を使って、人を殺せば殖え過ぎた人間を一度に減らすのに都合がよいのでしょうか?

乱筆乱文になりました。よろしくご判読下さい。

 

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