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被爆の体験と証言 
伊達 邦郎(だて くにろう) 
性別 男性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市基町[現:広島市中区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 陸軍病院 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

ぜひ伝えておきたい、あの光景や出来事 (あの日)

当時私は陸軍衛生兵として広島陸軍病院に勤務しておりました。一九四五年八月六日八時一五分頃、何の前触れもなくドンという物凄い射撃音と稲妻のような閃光が走り、想像を絶する爆風で私は吹っ飛ばされました。

気が付いたら、私は兵舎の下敷きになり身動きのできない状態でした。私はそれから、どのくらいの時間をかけて、どのようにして脱出したのか・・・、今でも、その時の事を思い出すことができません。

脱出に成功した私が後ろを振り向くと、私が下敷きになっていた兵舎の瓦礫が真っ赤な炎を上げています。私は思わず、「助かった」と、声をあげました。

あの燃え上がる炎の下で私と一緒に入隊した同年兵の多くが、泣き叫びつつ死んでゆくのです。その光景はまさに地獄です。周囲は火の海と化しつつあるのです。助かった同年兵は九人になりましたが、皆あまり口をきかないのです。あまりの衝撃の激しさと、多くの苦労を共にしてきた戦友を亡くした事に茫然自失していました。

そして生き残った我々のただ黙々と炎を避けての脱出が始まりました。

私は背中全部と右脇腹の一部、右手の一部に火傷を負っており、皮膚が剥がれて足のかかとあたりまでぶら下がっているのです。そこに太陽の光が照りつけてズキズキと痛みます。

一般道路に出ると物凄い人の波です。老人、子供、女性・・・・、皆泣き叫びながら肉親の名前を呼んだり、顔に火傷を負い男女の区別もわからなくなっている人、手や足に負傷している人、着ている衣服はボロボロです。

道路いっぱいに傷ついた多くの人々が、ひたすら歩いているのです。その凄まじさは言葉で表現できるものではありません。

私は火傷で身体の半分以上を焼いているのです。身体の三分の一以上火傷を負ったら命が危ないことを衛生兵である私は知っております。傷の痛みと高熱で夢遊病者のような状態で十時間近くもかけて十五キロもの道を陸軍病院戸坂(へさか)分院に、やっとの思いでたどり着きました。私は垂れ下がった皮膚を切り取ってもらい、治療といっても傷口に赤チンを塗るくらいしか手の施しようがないのです。一応の手当が終わった私は、そのまま意識がなくなり、昏睡状態になりました。

戸坂分院で何日過ぎたのか、全然記憶がありません。

ある日、突然周囲が騒がしくなり、私は微かに意識が戻ったのです。私の枕元で、
「駄目だよ。こんなの連れて行っても途中で死んでしまうよ!」
「でも、うちの兵隊だから無理しても連れて行きませんか?」
その時別の声で、
「軍医殿、この兵隊は自分たちの同年兵です。自分たちで面倒見ますから是非連れて行かせてください。お願いします!」
「途中まで持たんかもわからんが、連れて行くか」
どうやら私の事らしい。

後で知ったことですが、助かる見込みのある者だけが島根県大田市の仮設陸軍病院に転送され、助かる見込みの無い者は戸坂に残すことになったのです。

夜になり、軍医殿が同年兵を連れて私の様子を見に来ました。

私は精一杯の元気な笑顔を作って見せました。軍医殿が、
「おお!意識が戻って元気そうじゃないか。これなら大丈夫だ。明日、島根に行くから元気を出すんだぞ。」
私の同年兵が、
「良かったな!俺たちもお前と一緒に行くからな。ずっと面倒見てやるからな。心配するなよ。」
と、私の手を握ってくれました。私は不覚にも涙が溢れ出ました。

翌朝早く、臨時列車で島根県の大田市に転送されました。その日が何日で何曜日であったか、私には全くわかりません。熱もあったでしょう。意識も朦朧としていたでしょう。

とにかく、暑くて長い一日であったことしか覚えておりません。

大田駅に着いたのは夕暮れ近かったと思います。国防婦人会のたすきを掛けたおばさん達に出迎えられ、冷たいお茶が美味しかったことを覚えています。私達は女学校の講堂に、各々マット一枚あてがわれて一人ずつ寝かされました。高熱と火傷の痛みで私は唸り通しで意識も朦朧としていました。薬もなく、治療らしい治療もなく、毎日痛みと苦しみに耐えるしかないのです。そして傷が化膿し、膿の固まりができるのです。それにハエが卵を産みつけ、そして蛆がわくんです。顔から耳を火傷している人など、耳の中から蛆が出てくるのです。次から次へと死んでいきます。夜が明けると何人かが死んでいます。

明日の朝は、自分の番ではないかと思っているのです。本当に毎日が修羅場であり、地獄です。

大田に来て何日目かわかりませんが、朦朧としている私の枕元に青い顔した母が立っていました。

あとから聞いた事ですが、私の所へ来る前に、軍医に「おそらく駄目だと思うから覚悟しておくように」と言われていたのと、火傷の傷があまりにも激しいのと、高熱でうわ言ばかり言っている私を見て、気が動転していたのです。その日から母と二人での長くて暑く想像もつかない壮絶な死との闘いが十一月末まで続くのです。

私は死線をさまよいながら奇跡的に回復したのです。


被爆後の病気や生活の苦しみ (戦後)

復員した私は、原因不明の熱が出たり、異常に身体がだるく疲れやすく、毎日不安でした。母一人子一人である母はおろおろするばかりでした。私は本当に治癒してないのではないかと、とても長生きなど望める身体ではないのではと思うようになりました。普通の人のように結婚して幸せな家庭を育むなんて甘い考えは捨てなくてはと思うようになりました。それから七年間もの長い年月、無気力で何の希望も無い生活が続きました。母は働いていましたので、小遣いを貰っては麻雀屋に浸りきりの毎日でした。母も私がそんなに生きられる身体でないと諦め、私の好きなようにさせようと思ったらしいです。

いろいろなことがありましたが、私にとって一番触れられたくない過去であります。

ただ生きているだけで、何も残ってない毎日。どうにもやりきれない気持ち。

私は自分の生き方にこの辺で決着をつけなければと思うようになりました。

人間としてぎりぎりのところで生きることへの尊厳を取り戻そうとしているのです。人間性回復に私はようやく気づいたのです。あまり賛成しない母を説得して、知人の紹介で神戸で就職しました。被爆者というハンデを背負って、精神的にも肉体的にも本当に苦しい三十五年間・・・。

私は六十二歳で現役を引退しました。

直線だけを、ただひたすら走り続けてきました。それ以外の走り方を知らなかったわけではなかったが、直線を走るだけで精一杯でした。三十歳で平凡な見合い結婚をして半年ほど経った頃、白血球が二〇〇〇台に下がり神戸医大病院に入院しました。

その時、初めて私が被爆者である事を妻は知りました。でも何一つ不平も言わず私を看病してくれました。私は妻が美容師であることに魅力を感じて結婚に踏み切った不順なものでした。

昭和三十八年に美容院を開店しました。田舎から母を呼び、一緒に暮らすことにしました。母は六ヶ月寝込んだ末に六十九歳で亡くなりました。その頃夜は母と一緒に寝て看病し、昼は店と子供の世話と・・・。妻は本当によくやってくれました。

ぼけていた母が亡くなるとき、妻の手を握り、
「世話になって・・・ありがとう」
と感謝しながら旅立ちました。

結婚して四十年過ぎた現在、二人の子供たちもそれぞれ独立し、私たち夫婦だけの生活の中で穏やかな毎日を過ごしております。

今も肝臓障害、肺気腫で内科へ、前立腺肥大症で泌尿器科へと、病気との縁はきれません。でも五十年前、広島で亡くした多くの戦友たちの為にも私は病気と仲良く付き合いながら、少しでも長く生きるために背中をシャンと伸ばして、残りの人生を悔いの無いように送りたいと思っています。


今被爆者としての生き方、訴えたいこと (現在)

本当の悲惨さは被爆体験者でなければわからないと思います。被爆者が高齢になり、数少なくなるのも避けて通れない道なのです。こうして体験談を語り継いでもインパクトが弱くなるのは否めない事実です。でもこの地球上に二度と原爆を落とさない為にも私たちは、この体験を語り続けていかなくてはならないのです。

広島と長崎に落とされた二発の原爆、五十年前のあの悲惨な夏の出来事が現在もなお癒されぬ傷口のように悲しい血を流し続けていることを、私たちは忘れてはいけないと思います。

平成七年 八月

 

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