広島に新型爆弾が投下された翌朝、私は尾道から徒歩で広島の爆心地にのり込んだ。陸軍船舶二等兵であった私は、大きな軍服を着せられた一八才の小さな男だった。暁部隊本部の復興作業の為、野原と化した広島で復員まで焼跡の整理の毎日。真夏の太陽は容赦なく照り続け、我々の感性は異常に高まり、眼に入るものは行儀よく並べられた屍体、様々の痕跡を留めた顔、身体、それなのに私は一滴の涙さえ落した記憶がない。私はただただ心身共にだるく、食べるものはカボチャばかり。重労働と思いっきり浴びたホコリ(それは放射能だったろう)、そして部隊全員の下痢の続く毎日。怠惰の感情のほか、何の感覚もなく、地獄の焦土をほっつき歩いた。ただ黙々と焼け跡の屍骸をかき集めて火をつけ整理した。一日の長い救援作業を終えると、まっすぐ宇品の丘の駐屯地の野営に戻る。そのまま土の上にごろりと横になって、ひたすら眠りをむさぼる。投げ出された体は微動だにしないが、眠りは本当に浅い。何もかも忘れようとして眼を閉じる。しかし並べられた沢山の亡骸、そのまわりを痕跡を残し、右往左往する生き残った人がさまよう等、昼間の生地獄が脳裏に映し出されて、休ませたい神経をいらだたせるのだ。又、狂人の悲鳴が聞えっぱなし。宇品の海には人間の肉塊が打寄せていた。
炎天下のきびしい暑さの中、重傷の人達は我も、我もと絶え絶えの声をふり絞って「水を下さい。」「水をくれ。」「水を。」と私に哀願した。大火傷の人に水を飲ませたら、あっという間に命を絶つと知っていたから、私はどんなに心を動かす程切なくても水を与えなかった。
私は水を与えなかっただけでなく自分だけ思う存分、水を飲み、作業中も喉をうるおしていた。思えば私は原爆による被害者(被爆者)であったと同時に、仲間の悲願もむげに裏切った罪深い加害者でもあったのだ。その罪の償いとして、当然の罪として私は喉を切らなければならなくなった。
喉頭癌を告知された昭和五五年から今日迄に再発は回を重ね、入退院を繰り返し、遂に喉頭全摘出の手術によって、完全に声を失った。そしてその後も首のまわりの骨やあちこち、肺にも転移して現在(平成七年一一月)も一七回目の入退をしてつらい、つらい治療を続け、「今日も生きた。明日も生きられるかな?」と、心で咳く毎日である。
|