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思い出したくない思い出 
辻 艶子(つじ つやこ) 
性別 女性  被爆時年齢 22歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2013年 
被爆場所 天満国民学校(広島市天満町[現:広島市西区天満町]) 
被爆時職業 教師 
被爆時所属 天満国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私が四歳のときに父が病気で亡くなったため、私は皆実町の母の実家で、母方の祖父が父親代わりとなって、私を育ててくれました。祖父は学生寮を営んでおり、広島文理科大学(現在の広島大学)などの学生さんがそこで暮らしていました。

私は、女学校を出た後、広島女子専門学校(現在の県立広島大学)を卒業して、昭和十九年四月から天満国民学校で教師として働いていました。あの頃は女性でも宿直があり、校務員さん、消防団員さんと女の先生二人、男の先生一人の五人の宿直体制でした。男の先生の多くは召集で戦争にとられていたので、少ない人数のなかで男の先生が責任者となり、私たちはその手伝いをしていました。

天満国民学校では、佐伯郡砂谷村と水内村(両村とも現在の広島市佐伯区湯来町)という二つの村へ、先生と三年生以上の子どもたちが疎開していました。

しかし、家庭の都合などにより疎開できない子どももいて、その残留組の子どもたちは、親元から夏休みもなく学校へ通っていました。学区内には貧しい家の子どもも多く、中には父親が戦死した子どももいました。みな純粋な子どもたちばかりで、そういう子どもたちのことを思い出すと今でも涙がでます。

私は二十二歳でまだ結婚していなかったので、疎開はせずに学校で子どもたちの面倒を見ながら、一年生から五年生まで合わせて四十人余りを受け持っていました。

当時は、軍隊が幅をきかせていて、何でも軍隊優先でした。それを批判するようなことを言うと警察に連れていかれました。竹やり訓練もしましたが、原子爆弾と竹やりでは話にもなりません。今から考えると本当におろかなことだと思います。
 
●八月六日被爆直後
昭和二十年八月六日は天満国民学校の宿直室(校務員室)で被爆しました。当時は、残留組の子どもは町内の色々なところに分散して授業を受けており、私はその一つの隣保館に行く準備をしていたところでした。

原爆投下の午前八時十五分、瞬間、何が起こったのか自分には記憶がなく、ほとんど覚えておりません。気がついたときは、宿直室の天井の梁が落ちてそれに挟まれていたのですが、男の先生が私を引っ張り出して助けてくれました。下敷きになった時、左目の上を切り、両腕には無数のガラス片が突き刺さっていることに気づきました。今でもその時の傷痕が残っています。でも痛かったという記憶がありません。おそらく必死だったのでしょう。

その時はまだ、火事になっていませんでしたが、すでに学校へ来ている子どもたちがおり、必死でかばいましたが、通学途中でわからない子どももいました。校舎は全壊で何時間かして燃え始め、私はそれをぼう然と見ているだけでした。
 
●死の行列
学校の辺りをうろうろしていたらだめだということで、もう一人の女の先生と一緒に逃げました。己斐方面に行くのに橋が壊れて渡れず、電車の鉄橋(天満町電車橋)を歩いて渡りました。枕木の隙間から下の川が見えて怖かったことは、今でも忘れられません。建物はみな潰れてぺちゃんこになっているので目標となる建物がまったくありません。皆で行くところ、行ける方向へと歩きました。死体はありましたが、見たくないから背を向けて、とにかく逃げなくてはという気持ちだけでした。

逃げる人々はまるで「死の行列」のようでした。モンペがちぎれて、下がりそうになるのを持って歩く女性を何人も見ました。手を離したらモンペが落ちてしまいます。私は屋内におりましたので大丈夫でしたが、本当に「死の行列」、「死の行進」でした。

途中、黒い雨が降り出したので、持っていた防空頭巾をかぶって近くの防空壕へ逃げました。要所要所に兵隊さんがいて、軽症の者を呼び止めて赤チンを塗っていたので、私も少し塗ってもらいましたが、全然塗らないよりは良かったかなと思ったものです。若い女性ということで、鏡で自分の姿をみないよう周りの人が気を使ってくれたようです。
 
●親戚の家を目指して
島根県境に近い高田郡北村(現在の安芸高田市美土里町北)に親戚があったので、そこを目指して歩きました。途中で夜になったので、お寺の本堂の縁側下に入り野宿をしました。八月だから寒くはありませんでしたが、一人なので怖かった。そのとき、二十二歳の乙女盛りでしたが、当時は皆同じような状態だったと思います。

朝になり太陽が出て、ああ、あっちが東だな、そうしたらこっちは北。聞く人が誰もいないので、自分で判断し、助かりたいという気持ちで一歩でも北へ向かいました。もちろん、あの頃の交通機関は何もなく、頼りになるのは自分の足だけでした。今にして思えば、二十二歳だったからできたことだったと思います。

父の兄がいる高田郡北村の家にしばらく居候しておりました。農家ではありましたが、食べ物のない時の居候はやるせないです。食糧はみんなで分け合って食べましたが、私が一人抜けたら、その分助かるわけですから、本当に悪いなあと思いながらの毎日だったとの記憶があります。
 
●被爆後の生活
終戦後、再び母の実家の皆実町に帰って小学校の教師をしました。廿日市の小学校に勤めていた時、男前の男性と出会い結婚、子ども二人を授かりました。しかし、夫には定職のない日々がしばらく続き、そのこともあって結婚生活はうまくいかなくなり、幼い子ども二人を連れて家を出ました。

結婚と同時に教師はやめていましたので、母に子どもたちの面倒を見てもらい、図書の販売の仕事を始めたのですが、当時の日本は高度成長真っただ中で、百科事典が飛ぶように売れました。その他、LP盤クラシックレコードのセットや色々な本を一生懸命売り、母の助けを借りながら、女手一つで子どもたちを育てました。
 
●健康への被害
六十歳代後半には、被爆者定期健康診断で肺がんが見つかり、国立呉病院中国地方がんセンターで手術、二か月入院しました。たばこをまったく吸わない私が肺がんになったのも原爆の影響だと思います。担当医、スタッフのおかげで、また、私も持ち前の明るい性格から、前向きに病と闘って、回復しましたが、手術の影響で声帯に後遺症があり、声が出にくくなりました。
 
●平和への思い
被爆当時、私には好きな人がいました。祖父がやっていた学生寮にいた人で、広島工業専門学校(現在の広島大学)の学生さんでしたが、召集されて、ニューギニア方面に行き、戦死されました。

本当は、その人と結婚したかったのですができませんでした。思い出したくない気持ちです。

戦争は絶対だめ。後世にこういうことは二度とあってはいけません。

しかし、自分をこういう目にあわせた国に対して恨みの気持ちはありません。娘は原爆を落としたアメリカの男性と結婚しておりますが、反対はしませんでした。

アジアの国の中には、歴史教育と称して、反日教育を行っている国がありますが、そういった国の若い人たちは日本に対して非常に強い反日感情を持っています。でも、日本はそういう教育をしていないので、いい国だと思います。

今、九十歳になりましたが、あのお寺や皆さんのおかげで、おまけの人生を気楽に生きたいと思っております。

原爆を落とされて、地獄を見ました。また、肺がんの手術も私にとっては地獄でした。人生で二回地獄を見たわけです。このようなことは二度とあってはいけません。同じ過ちを繰り返さないためにも、わたくしの体験を後世に伝えることで、お役に立てばと願っております。

少しさびついてはおりますが、自分自身に喝を入れて、もう五年くらいはお迎えを待って欲しいなと思っております。 

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