私が七歳の八月六日、朝は晴天で太陽がぎらぎらと輝き、目にはまぶしく暑い一日が始まっている。
父と長男は兵隊にとられて、家には居ない。母は勤労奉仕に行った。私は八時頃から、子供達がよく遊びに行く、近くの風呂屋に行って四~五人、道路で遊んでいた時である。
原爆が投下された瞬間に吹き飛ばされて、家の中で気がついた。黒煙で真っ黒で何も見えない。しばらくすると、小さな光がわずかに目に入ってきた。その光を頼りに歩いて行くと、格子戸の玄関であった。外に出ると、すでに狭い道は瓦がいっぱい散乱し、歩くにも困難な状態で人々は泣き呼び、大人も子供も流血し火傷で顔の皮膚がずるりとむげ、ぶら下がっている。又、背中や腕足も水泡ができた人々で、右往左往と走っている。
私も何が何か分からず、人の後をついて走った。気がついたら素足であった。道は焼けて熱く、頭上からは瓦が落ちてくる中、どこをどのように走ったかは、覚えていないが広島には七本の川があり、その一本で本流と思うが、川岸へでたら、兵隊さん数人が居て小さな船で人々を運んでいた。火が廻って来ない場所へ運ぶようで、私もその船に乗った。
着いた場所は江波小であり、大勢の人達がすでに避難していた。知った人は誰も居ないが、皆がお互いに声をかけあい、いたわり合って時間が流れていく。夜があっという間にきた。
私は喉が渇いた。空腹で目だけがギョロギョロしていたようである。その私を兵隊さんが見つけてくれて、お水とおにぎり一個を手に渡してくれた。嬉しかった。この時の、おにぎりの味は今でも口の中で忘れることはない。なぜか涙が流れてきた。夜空は月がうすぼんやりと見えた。星は見えなかった。服を見るとボロボロになってカスリの白布の部分だけ穴があいていた。
おにぎりを食べ終わると、兵隊さんが住所と名前を聞いたが、ショックで住所は言うことができず名前だけ言えたことを覚えている。夜は地面にムシロを敷いて、三人位でゴロ寝をして夜空を眺めた。
私の家は焼けて無いという。六日の朝、母の姿を見たのが最後であった。あまりにもショックが強すぎて、今では母の顔は頭の中には残っていない。一週間くらいに、兵隊さんが家のない私の住所に連れて行ってくれた。そこには兄二人と姉二人と叔母と祖母が立っていた。私の姿を見ると、「恭子、生きていたのか」と言って、つよく強く抱きしめてくれた。私は、うれしくて涙が溢れ出て止まらなかった、と共に息苦しかった。兄に「息ができないよ」と言ったら、ゆっくりと手を緩めてくれた。
食べ物なし、着るものなし、住む家もなし、電気の光もなし、そんな生活がしばらく続いた。
その頃の人々は、生きることのみに、生きてきた。私もその中の一人です。合掌
(出典:『記憶からの叫び』倉敷被爆者会)
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