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未来への伝言 被爆の体験と証言 
鷲沢 誠(わしざわ まこと) 
性別 男性  被爆時年齢 29歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 船舶砲兵団司令部(暁第6180部隊)(広島市比治山本町[現:広島市南区]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部船舶砲兵団司令部(暁第6180部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市比治山本町

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
被爆の体験と証言

昭和一九年一二月第一回召集解除に続いて、二〇年四月第二回臨時召集により広島船舶砲兵団司令部衛生兵中隊に転属、比治山の木造小学校に宿営。当日八月六日朝礼、中隊長訓示の為全員校庭に集合整列中、防空監視廠の敵機来襲の声とかすかな爆音にて一斉に天空を見上げた処、一瞬顔面叩かれた様な強い衝撃を受けその場に伏せた処、一面校舎倒壊による砂塵モウモウ一寸先も見えず。約一時間后ようやく見通しきく様になり集合したが、皆軍帽は飛ばされ軍帽より露出箇所の毛髪は焼け顔面ヒリヒリ痛く、始め近く焼い弾投下かと思ましたが、近く火災なく遠く空は真暗くキノコ雲見え異状を感じ、命令により各自持参の薬のうより亜鉛華オレーフ油を顔面に塗布、痛みを和らげ倒壊宿舎内の戦友の救出及全員各班に別れ、ある丈の薬品テント持参医療活動に従事致しました。

当時軍人及一般男性は帽子、巻脚絆にて身の防護比較的整っていましたが、当日迄広島には一発の爆撃もなく、一般女性市民は暑さの為もあり殊の外被害ひどく、火傷の為衣服は破れ肉片タレ下り、眼を明けておられない人も多数。只暑さをさける為水々と叫び木陰木陰へと集り、最后の力をフリしぼり歩行しているよりはって歩いている状態の人が殆ど。中には力つき木陰でそのまま横たわる人多数でした。

又屋内に居て火傷のない人も倒壊木片ガラス破片、体中にささり殊に幼児の痛々しい様は正に地獄面でした。

医薬品も脱脂綿ガーゼ包帯赤チンリバノール消毒液のみ、軍医の巡回もなく只々消毒するのみ。翌日ガーゼ交換に来る時は最早化膿癒着の状態となり、指と指と引ついてしまう状況でした。

九月四日召集解除復員となりました。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
復員時医療に従事した時の市民の方より薬品をさがし、送ってくれる様にと頼まれて復員したが当時の物資不足の折、何一つ手に入らず約束果せず何よりの心の痛み。

当時進駐軍にでも関係あれば或いは良薬入手可能で何人かの人が助ったのではないかと今でも何よりの心残りです。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
戦争は絶対さけるべき事。

核は持たない事。

外国よりの侵入の場合の軍事力は自衛上必要と思う。
  

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