「被爆」-私と兄の人生-
一九四五年八月六日八時十五分 世界で初めての原子爆弾が、広島に落とされました。
私は小学校二年生、七才の時、兄は六年生で十一才の時でした。爆心地から僅か一・二キロメートルの至近距離で被爆しました。
祖母・父・母も被爆しましたが、ここでは省略して、私と兄のことのみ、ごく簡単にお話します。
私は隣に住んでいた三年生の波玉由子ちゃん、四年生の佐伯秋子ちゃんと、電車道のポプラの樹の下で遊んでいました。原子爆弾が「島病院」の上空五八十メートルで炸裂しました。閃光のあとに猛烈な爆風が襲いかかり、あらゆるものをなぎ倒しました。私は爆風で吹き飛ばされ気を失っていました。気がついた時は周囲は真っ暗でした。運よく由子ちゃんを見つけ、一生懸命家へ家へと向かいました。
町内会長さんが「家へ帰っても駄目だから川の方へ逃げなさい」と云われました。
由子ちゃんと私は、手をつないで横川橋の下へ行きました。その時は干潮でした。
町のあちこちから火の手があがるにつれ、あたりは火の海となり地獄へと変わっていきました。横川橋の下では大人の人が、丸太を探してきて川に浮かべました。「いざという時はこの丸太に乗って逃げよう」と云われました。私も由子ちゃんも腰まで川の中へ入り、丸太に掴っていました。
市の北西部に「黒い雨」が降り始めました。大人の人が拾ってきたトタン板の四隅を手で支えて屋根を作ってくださいました。腰まで川の中に入っていたので、夕方になると寒くなり、土手にあがりまだ燃え残っている火のそばであたりました。
その日の夜は、イカダの上で何人かの人達と一緒に寝ました。
八月七日の朝、イカダの上で目を覚まし、川の水で顔を洗いましたが、私の顔は、なかなかきれいになりません。その時初めて気がついたのですが、右の額に縦三センチメートル横一センチメートルぐらいの怪我をしていたのです。
イカダからおり土手に座っている時、父が迎えにきてくれました。アルミの弁当箱にご飯をぎっしりつめて、塩を紙に包んで持ってきてくれました。
父は「十一才の兄は何としても逃げてくれていると思うが、私は駄目だろうなあ」と思ったそうです。一級上の由子ちゃんと一緒だったから助かったのだと思います。
私は父と母と三人で会社の保養所(宮島線の「井ノ口」)へ行きました。
兄が被爆した時は、三篠小学校の運動場で朝礼の時間でした。目と耳を手でふさいで運動場にうつ伏せになりました。熱線は容赦なく兄の体を通り抜けていきました。夏ですから薄着です。ただ半ズボンとブリーフの箇所だけ二重になっているので、そこだけ火傷を免れました。
あとは腕・背中・足・特にふくらはぎは、ひどい火傷でした。原子爆弾の熱線で、半身大火傷の状態でした。
父が兄を見つけた時、兄の体には「赤い紙」が貼られていたそうです。体の背面を大火傷をしているので、仰向けに寝ることは出来ません。少しでも体を動かすと痛いので、畳の上にもう一枚畳を置いて、その上にうつ伏せに寝ていました。
父は大八車に畳ごと兄を乗せて、ガラスの破片で大怪我をした母と、私を連れて「井ノ口小学校」の校庭へ、毎日治療に通いました。
八月六日に原爆にあい十月七日に兄は亡くなりました。「赤紙」を貼られた兄が、必死の両親の看病で二ケ月も生きていたのです。
兄が亡くなる時、まず両足が冷たくなってきました。両親は「冷たくなって足が死んでしまった。どうしよう。足を切断しなくてはいけない。」と云っていたのをよく覚えています。ここまで回復した兄が死ぬるなんて考えてもいなかったのだと思います。いいえ、分かっていたけれども信じたくなかったのかも知れません。その時の両親の気持ちを思うと、胸の張り裂ける思いです。最後は飲ませた薬がそのまま便と一緒に出ていました。
放射線が体の奥深くまで入り込み、細胞を破壊し血液を変質させると共に、骨髄などの造血機能を破壊し、肺や肝臓などの内臓が侵されていたのだと思います。
苦しく痛い目をして亡くなった兄は、本当に可哀想です。
僅か十一年の短い人生だったのです。
今元気で生きていたら七十四才になっています。孫に囲まれて楽しい日々を送っているでしょう。
「地球温暖化」のことも本気で心配しているでしょう。「核兵器廃絶」を叫び続けるでしょう。私は亡くなった兄の代わりに「平和」に向けて努力をしていきたいと思います。
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