昭和二〇年八月六日 縫部正康が被爆し その体験記録
八月六日 被爆当日
私、縫部正康 一五才 県工電気科三年生
弟、縫部寿彦 一二才 県工電気科一年生
母タキノは朝早く起きて、私たちの弁当を作って、くれている。(その頃はたべものがない時代)
母の弁当作りを良く見ていた。(後で弟寿彦の死骸を見つけるため非常に役に立つ)
母タキノから、早く学校へ行きなさい。(当時は履物もない物資のない時代)(父は軍からの動員で家にいない)
弟寿彦、履く物がない、学校を休む
母、何を云うか、学校へ行きなさい
弟、ハブテル
母、私のジカタビを履いて行け
弟寿彦は学校へ
私正康が今思う。
弟寿彦は学校を休すんでいれば、死ぬことはなかった。……人の運命は、どこで、どうなるか、と思う、今日この頃です。
私正康は、学徒動員で職場へ(物作り手伝)八月六日朝、皆さんと一緒に、広島電鉄から降りて、歩きだす。警戒警報発令と公報している。(警戒警報となると学生は自宅へ帰ることになっていた)
皆、警戒警報だ、帰ろう、帰ろう。まもなく、警戒警報解除との公報している。皆どうする。知らぬふりして帰るか、職場へ行こうと云う声が多いい。皆職場へと歩きだす。
(家に帰っていたら、ちょうど八丁堀附近で被爆していたことになる。それを思うと、ゾートする)
職場に入ると、工場内から、学生は教育室へ集まれ。教育室では、私正康は、二階の窓際の机に座る。先生が、教育室に来る前、八時一五分、ピカーとものすごい光線、少しして、ドンと大きな音、隣の食堂屋が倒れる。怖い。すぐ、机の下へもぐる。(私たちの建物は倒れず)少し時間が立ち落ちつく。
建物から外に出ると、広島中心部は、キノコ雲、これは何だい。だんだん大きくなる。私たちは職場へ帰る。私の職場は壊れ、天井からスレートが、落ち、床全体へ、ちらばっている。仕事が出来る状況でない。防空ゴウへ行く。私たち、何があったか分からん。しばらくすると、学生は家に帰って良いとの知らせがある。
学生は家路につく。そこで見たもの、これが、ほんとうの生き地獄。
町の中から被爆者は熱さを逃れて、水を求めて、ゾロゾロと、一人や二人ではない。数え切れない、多くの人が、身に付けているものは、ボロボロ、皮膚が垂れ下って、ひどく痛たそう。私たちは、これは、どうなっているのかと思いながら、家路へと広島中心部へと歩いている。
広島中心部へ近づくにつれ、火災が、ヒドク、火の海。アツイ、アツイ、広島中心部へは、とても行けそうにない。
遠くから、タスケテ、タスケテーの声が、きこえる。でも、火災が大きく、アツサで、とても行けるものではない。私たちは、コラエテ呉れコラエテ呉れと言いながら、歩いて、火災を、さけるため、遠ざかる。
家路へと歩く、途中、自転車店があり、自転車が数台ある。自転車を借りて帰ろう。自転車店の人はいない、自転車ドロボウになる。ヤメトケ、又歩き出す。ようやく山陽鉄道線路へ。(後日その自転車を見ると、全部焼けて、使えるもので、ない)
どこを通って、帰えるか、戸坂峠しかない。今横川駅(国鉄)附近、道路は火災がひどく、通ることが出来ない。国鉄の鉄道線路を通るしかない。鉄道線路内を広島駅方面に向って、鉄道線路内を歩く。なんと、鉄道線路の垣根が一本一本燃えている。山の方を見ると、松の根が、いきよいよく燃えている。広島中心部を見ると、火災がものすごく、ドラム缶が火を吹いて、空に向って、高く上り落ちる。ドンドン、広島駅方へ歩く。河がある。鉄道鉄橋を渡る。しばらく歩くと、広島から可部方面へ行く道路へ出る。
ここでも、ゾロゾロと多くの人が焼タダレ、着てるものは、ボロボロ、皮膚を垂らしているもの、中には、目を飛び出し痛い痛いと云って、可部方向へ向かってゾロゾロと歩いている。広島駅方面へは火の海、熱い熱い、とても歩いて、行ける状況でない。私たちは戸坂峠へ。
ヤット、戸坂峠。戸坂峠を歩いていると正康、正康と私に近づいてくる。着てるものを見ると、ボロボロ、ひどい火傷、その人が、我はタダミツだ、家に帰ったら、戸坂の軍の病院に行っていると、伝えて呉れ。(タダミツの母が、即、病院へ行ったが、タダミツは死んでいたとのこと)戸坂峠を越えた頃、雨が降って来た。黒い雨だ。B29が油を蒔いたか?また歩きだす。
船越峠を歩いていると、三人の女性が、着ているもの、ボロボロ、私たちが近づくと、山の中へ隠れる。私たちは、かまわず家路へと急ぐ。ようやく、海田駅につく。汽車は動いていない。皆と別れ、それぞれ、家路へ。私は国道三一号線に出る。自動車が走っている。どこの人か知らないが、すぐ自動車に乗せてくれる。ようやく、家にたどり着く。
家に、たどり着き、家の中を見ると、フスマは、全部、飛んで、家の中には、何もないよう。母は何が、なんだか、分らんが爆風で、全部飛んだよ、と私に云う。母は、正康生きていたのかと、びっくりして、喜こんでくれた。弟寿彦(県工電気科一年生)は学校へ行ったので、そのうち帰ってくると、母は云う。
でも帰ってこない。被爆死していた。
昭和二〇年八月七日
縫部正康(県工三年生)が
被爆死者、縫部寿彦(県工電気一年)を探す
昭和二〇年八月六日、正康の弟寿彦は帰って、こない。
八月七日、母から、正康、寿彦を探しに行け。正康は県工電気科三年生、寿彦は県工電気科一年生。母は、被爆収容所を廻って、寿彦を探しに行くと云う。私正康は、とにかく県工へ行って、電気科一年生の行き場所を確認する必要があると思い、出発する。
汽車は動いていない。とにかく国道三一号へ出る。国道で手をあげ、トラックで向洋附近まで乗せてもらう。向洋附近から歩いて、県工(千田町)まで、比治山の広島中心部側を歩く。なんと、広島中心部は焼原で、横川己斐の方まで、焼けて、何もない。
見通が良い。私は御幸橋を渡って県工(千田町)へ着く。
なんと、学校は、校舎は全て倒壊。実習場だけ、鉄コツだけ残っている。校舎は、どうも原爆の爆風で崩壊したようである。
学校(県工)で電気科一年生の行き場所を問おうにも、誰もいない。少し時間がたって、 大薗平吉校長と出合い、でも電気一年生の行き場所は、わからん。
県工学校内で誰か、電気科一年生の行き場所をと思い、しばらくすると、用務員の先生と出合い、すぐ質問する。どうも良くわからんが、県庁(中島新町)の方かなあーとのこと。私は、これを、頼りに、県庁(中島新町)(現在の平和公園)の方に歩き出す。
広島中心部は焼の原見わたすかぎり、建物はない。所どころ鉄骨の建物が見える。被爆光線で建物が焼け、鉄筋だけが残っている。どんどん、中島新町の方へ歩く。そのうち、被爆死者が一人また一人、馬も、大きく腫れて、死んでいる。中島新町へ近づくと、被爆死者が、どんどん多くなる。数へ切れない被爆死者。
私は被爆死者を、見ることが、ダンダンなれてくる。中島新町では、火災で出来た、灰が靴の上の方まで、埋まる。自分の足も熱い熱い、非常に歩き、にくい。弟寿彦を探がすため歩く歩く。探しながら歩くが、サッパリ分からん。中島新町では、私と同じようにか、人を探しているのか、二人~三人と出合う。しかし、皆無言のまゝ。中島新町では被爆死者が特に多く、数えることは、出来ない。
中島新町の本川橋、タモトの、河へ降りる石段には、数え切れない多くの被爆死者が、皆な体は脹れて、腫れて、頭の髪も焼けて、着てるもの、身につけてる、もの、ひとつもない。男か女か区別がつかん。
私は、弟寿彦が、どれか、分からん。あきらめかけて、いた。すると、なんと弁当箱が集められている。ウン良く、弟寿彦の弁当が、あった。絶対寿彦は、この附近にいる。
でも、どうしても、弟寿彦を見つけることが出来ない。しかたなく、家に帰る。母へ報告。八月八日、皆で弟寿彦の弁当があった所、行くことになる。
昭和二〇年八月八日
県工電気科一年生 縫部寿彦被爆死者を見付ける
昭和二〇年八月六日、正康の弟寿彦は、家に帰って、こない。正康が寿彦の弁当を見つけた(八月七日)所へ八月八日、父、母、私正康と三人で寿彦が見付かったらつれて、帰へるため三輪車(自転車)で中島新町の本川橋附近へ行く。ここにつくと、数え切れない多くの人が、被爆死している。父母は、オドロイて言葉が出ない。
私正康は、弟寿彦がいると思われる、本川橋の横の河へ、おりる石段(ガンギ)へ急ぎ父母を案内する。ここでは、もう兵隊さんがトビグチで、河へ、おりる石段(ガンギ)から、被爆死した、死人を、上にあげて、焼いている。
河へおりる石段で弟寿彦を探していると、母が、寿彦がいたと、父に報告し、喜こんでいる。私正康は、どう見ても、弟寿彦と思えない。顔、体、も、大火傷。体は大きく、脹れて、男か女か区別がつかない。物を見て男とわかるが、まだ、寿彦と思えない。
しかし、母が寿彦と云うので、私と父とで、石段(ガンギ)から上にあげる。そうすると、なんと、寿彦の足の膝のあいだに、ハサマッタマキギハンが少し残っている。寿彦の体に残っているものは、コレダケ、残っていた。マキギハンに、縫部寿だけ読める。寿彦に間違いない。私は涙が出た。
父から、兵隊さんにお願いし、被爆死者弟の寿彦を火葬して、帰った。
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