被爆状況
昭和二〇年八月六日当時一四才。動員学徒で広島観音三菱製缶工場へ行っていました。宮島連絡船六時三八分で電車を己斐までそれより徒歩で観音のみつびしへ。附属山中高女三年生。工場の二階が控室で片すみで作業着に着がえて八時半より作業へ行くのに友人と話しをしている時ピカ・・ドン。広~い部屋全部ガラス窓になっていたので全体のオレンジ色の光の中、後は気をうしなっていた。気がついたらちょうど大きなテーブルの下にいて、となりに友人Aが上をいっしょうけんめい見ていた。二人でかすかな光をたよりに出てみた。階だんにはガラスの破へんがいっぱいで当時げたをはいていたがとんで行ってない。はだしでガラスの破へんの上をおりた。不思議にけがをしていなかった。外の防空ごうに入ったが先生が帰れる者はかえれとのこと。友人Bが救急ブクロを取りにいってくれてすぐに土手(川の方)へ一〇人位で出た。
たくさんの人がいっぱい右往左往していた。ゴロゴロとかみなりがなってこんなに天気が良いのに不思議だった。今思うのに黒い雨が降る前だったのだろう。己斐方面は火災があちこち発生しているのでかえるにはだめ。今の庚午橋か川の三分の二位丸太のままの橋を手をひっぱってもらって(途中までは渡しの舟)やうやく丸太の上に立った足がふるえて下を見ると川の水が・・・ほんとうにこわかったがその丸太の橋をわたらなければ向うの「ふるえ」までわたれない。必死でようやく渡った。ほんとうにこわかった。友人B、Cと三人で宮島方面を歩きはじめたがとても天気が良いのでアスファルトがあつくて歩けない。ちょうど救急ブクロにワラジを入れてたのでそれをはいて廿日市まで歩いた。
電車が廿日市より出たので宮島口までいく。宮島口で父(さがしに行くところ)に会って連絡船でかえる。宮島ではもう死んでいると思いしんせき中が集っていた。ぼろぼろの姿だったらしい。次から次から舟が着くたび家ぞくの人が駅までいっておられた。連絡船のそこ(当時は舟そこ)友人と父が持ってきたおにぎりを食べたのが忘れられない。
今六〇年を考えるとほんとうに戦争はいけない。
食べるものもはいきゅうでお米はないし麦ばっかり。コーリヤンとかサツマイモのはいきゅう、何にしても食糧不足。今は何でも自由に何でもあるし。私達以上の人は食糧不足はわかるがそれ以下の人はわからないと思う。
被爆した時にいっしょだった友人Aも三年位前に亡くなってしまった。その時元気で広島から帰った人も後から色々な病気で私も三〇年前は目の手術をして二ケ月入院。六〇日ねたままの生活だったが今おかげさまで元気になり、次は骨折とか色々大変だった。原爆手帳でも当時友人どこへいるかわからず二二年後やっといただいた。
今、世界中どこかで戦争ばっかりしているが命を大切にして早く世界中が平和になってほしい。戦争のため亡くなられた人原爆のためなくなられた人の御冥福をお祈りいたします。今日まで生かされた事を感謝しています。足は痛いが何とか自分で歩けるので幸です。
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