今年は被爆五〇年。
私も無難に日々を過して居ります。
何かのお役に立てばと思い今まで家宝、としていた同封の戦災記を送ります。
広島戦災後
戦災当時の記事
八月六日午前八時十五分市内細工町本局上空に原子爆弾投下さる。小生は呉海軍工廠総務部運搬輸工場自動車修理班電気修理所前にて道具運搬のためトラック上に在り一瞬にして前方光る。暫くして爆風を感ず見る見る前方に入道雲様の雲の塊が出来むくむくと大きくなり赤色を帯びる噂四方に頻々と飛び聞く「八本松の燃料廠の火事、広島のガスタンクの爆破」と帰廠呉駅にて頭顔手等に繃帯をした人達を目撃す其処にて広島爆撃と云ふ確報を聞く。
帰寮寮長室に一人の少女洋服を血に染めて聞く。広島より逃げて来たと。広島全滅と。不安を感ず。相互の話専ら広島の事に及ぶ。就寝後修道の先生来る。皆に広島の状況を具に語る。
八月七日一番の列車にて広島に向ふ。列車内には沢山の海軍軍医兵乗り込む。坂にて下ろされ其処から徒歩にて進む途中沢山の病人と合ふ。東大橋の袂に警官出張り市中へ入れず下り列車乗客だけ駅の方へ行かす。小生は下り列車乗客者と偽り通り抜け荒神橋の方へ行く電車一台破損して立つ。東警察署無事と書いてある。父警防団東警察署勤なる故無事と思い東警察署へ行く。人右横左横又一警官に問ふ。父の安否を知らず。外者に問ふ。昨日は広島の警防団は一人も出て居らなかったと言ふ。罹災証明を書いて貰ふ。署の裏には寿司詰の如く患者横臥す。其処にて罹災証明書を書いて貰ふ。乾パンを二包貰ひ大本営へと電車路を行く。福屋の前で四、五人黒焼になって斃る。偕行社入口辺りにも斃る。紙屋町より西練兵場に入る堀端の両側に兵隊の患者沢山斃れて「水を呉れ」と叫ぶ。経理室の前芝生の上に捕りょ手錠をはめられて投げ出されている。中国軍管区跡は建物は全部焼け野原にテーブルが据へられ将校事務を取る。其の辺に居る将校は大小負傷しないものはなし。小生事務員に問ふ。「烏田三七子はどうしましたか」と帳をめくって事務員答へるには「あれは傷は少々したが気は確かだ。大丈夫見てやれ」三七子を探しに幼年学校に行く。運動場に板と木を立てたほんの日除け小屋を立て何十人もの患者横臥しうめく。一通り見たがわからず近くにいた娘さんに聞く。「解る」見ると半袖シャツ一枚下は毛布をかぶせ顔面は焼ふくれ目も口も開く事が出来ず三七子と云ふ。返事をする「お父さんお母さんは」と「それがわからんのじゃ」「家に桃があるから持って来て」と「家はない」「なにをしよった」「朝朝礼が済んで皆で長刀の稽古をしよった。自分は先頭だったから一番ひどかった」「いたむか」「二、三日痛んだが今は痛まない」「水がほしい」と云った。水を求めに幼年学校を出て井戸水をバケツに入れて行き一滴一滴口に注ぐ。辺の兵が頻りに水を欲しがる。軍医が水を与へなと云ふ。聞かない。そうする内に隣に居た将校が息を引取る。手拭を水に浸してあごに当てる。気持がよいと云ふ。三七子に云ふ。「僕は今から御祖母さんの所へ行くから」と「お兄さん行っても自分がけがをして居ることを云ふな」と「自分の胸のポケットに銭が少しあるから持って行け」と見れば着て居る上衣は人の借りものらしい。上言に「青木参謀殿と自分は絶対に死にゃあせん。自分が死ねば軍属として民間のものに相済まぬから」
其処を去って相生橋を通り岸伝いに横川に行く途中多くの患者を見る。無事可部につき深川へ行くと両親居らず全然消息判明せず。
八月八日
原本が読みにくいので昭和五十八年七月五日己斐大迫宅にて複写す。
烏田一男
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