旧制中学一年生(修道中)であった。正規の授業が続けられたのは昭和二〇年四月から六月初旬までで、六月の中間試験幾何、代数、生物、英語でこれが授業の最後であった。六月中旬から勤労奉仕の連続で夏休みもなく市内の建物疎開作業に従事した。八月六日は二年生の当番作業日で我々一年生は休養日であった。二年生は三分の二の約一〇〇名が被爆死した。父も建物疎開作業にその日も朝早くから水主町(旧県庁周辺)の建物疎開に行っていた。その父は全身放射能やけどで八月一一日江波山の兵器学校防空ごうで死亡した。私は舟入幸町の路上におり私は幸い建物の蔭と日蔭で助かった。その一瞬は今でも鮮明に覚えている。警戒警報解除直後で、どうもB29の爆音が聴えるがと思い、空を見上げていた。その瞬間である。ピカットと光り、目がみえなくなり、目がつぶれたと思い、思わず目と顔を両手でこすったら顔一面の皮膚がづるづるとはがれてしまい、全顔面が火傷していた。しばらくすると目がみえてきたのでともかく、江波方面へ逃げた。(放射能光線によるヤケドである)(南風で幸いであった。)
近くに焼夷弾が落ちたとばかり思っていた。
空全体が暗黒でどんよりしていた。
背中から肉がさけて自分の肉片をひきづって逃げている婦人。片目の飛び出て全身やけどの人。まさにこの世の地獄であまりにも残酷でとても表現出来る言葉がない。
それ以来、B29の爆音が聴こえてくると足がすくみ、居ても立ってもおれない恐怖感におそわれ、足がぶるぶる震えていた。顔面の火傷が江波の潮風にあたり、ひりひり痛むこと痛むこと。顔は二倍にふくれあがり、微熱が出て、口が開かず食べ物も食べる事が出来ない状態であった。顔面は化のうしてきておりうじ虫が顔面中にわき、鼻の穴からうじ虫が出ていた。
八月九日に田舎の叔父が迎えにきてくれて、田舎へ引上げた。祖母がきゅうりの汁をたんねんに塗布してくれて八月の終り頃はかさぶたが出来、快方に向かった。昔の人の知恵できゅうりの汁は大変良く効いたと思う。(火傷には当時、油を塗っていたが、これは間違いと思う。現在の医学では火傷は先づ水にひたすようである。)(毒だみ草の煎じ薬も良かったと思う。)
思うに、被爆死した家族一家は八月六日を界にそれぞれに運命ががらりと変ったと思う。当時の中学一年生の学友五人が死亡しており、時にふれ、しばしば思い出す。
運命と言うものを感じている。何かの力により自分は現在も生きている訳である。私自身この原爆体験により運命論を肯定する人生観である。 |