昭和二〇年三月一六日結婚と同時に広島の主人(船舶兵団司令部勤務)と共に任地に赴きました。五、六月頃から呉方面の空襲が度を増して八月六日の原子爆弾を受け主人は朝礼の時頬に閃光を受け乍らも一週間も広島駅の周辺とか島島に上官の行方を捜して放射能をふんだんに吸収しましたが丈夫の体だった為か、その時は異状もなく家に帰って体中が動けぬ程の腫瘍に何ヶ月も悩まされ私も同様二人で苦しみました。私は外に出て飛行機を見たか見ない中に吹き飛ばされ家屋の下敷で気絶し傷を負いました。
主人の安否も解らぬ儘傍の公会堂には後も絶たぬ人間であって人間の姿のない被爆者が続続と押しかけ「助けてくれ」「水をくれ」と泣き叫ぶ人等の看病に日夜を徹し我が身の傷も省みずに大変な人達の手当を続けたのでした。然し薬等ほとんどなく唯赤チンあるのみの状態でしたが目を覆うような人達を一生懸命に看護したのが今も目の先にちらついて寒気のする思いです。そしてぱたぱたと死んで行き道路の両側はその人達を焼く臭で眠れない思でした。
市中心部の建物疎開に一緒に行く筈のお世話になった奥さんは一人で行き黒こげで這い帰り真黒の水を吐いて亡くなりました。
考えてもおそろしい事ですが私達からは到底忘れようにも忘れられづ五〇年経ったなんてとても考えられづ遂未だ昨日の事のように焼きついて離れません。こんな思を二度と世界の人達に味あはせたくありません
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