(一)私自身は「学校防衛」の任務を課されて広島高校に登校。朝礼中に被爆(戸外)。木造二階建校舎に遮廠されて火傷を免れたが、もう一〇分爆発が早ければこの校舎(大破)のなかにいて、大怪我をするとこであった。
(二)父親は通勤途上で被爆。明治橋たもと付近で焼死体で発見された。両手足が付け根から灰に化してなくなり、顔立ちも性別もわからぬほどの焼けようであった。また一二才の妹は建物疎開作業に動員されて、爆心から約一キロメートルのところで大火傷を負い、似島に収容されたが八月一七日に原爆症を併発して死亡。一度面会出来たもののあと消息がとだえ、ひとりぼっちで死なせた悔しさがいまも消えない。
(三)母親は一・一キロメートルの自宅で被爆。奇蹟的に火傷も怪我もなかったものが、上記の妹を探すため広島湾沿岸一帯の被爆者救護所を私とふたり、約一週間探し歩いた無理が重なり、九月一日に急に原爆症を発して倒れ、四日に人事不省のまま死没。死体は私と弟の手で焼こうとしたが、燃料も不足のまま、半焼けの死体を土に埋める。
(四)五才の妹は農村部の知人宅に疎開させていて原爆を免れたが、私が引き取ってあと、急に食料が量質とも劣化したため、九月二六日たぶん赤痢と思える症状で死去。一家七人のうち四人を八~九月中に失い、一七才の私(長男)が弟、九才の妹と共に敗戦直後の苛烈な生活苦を味わうことになった。
(五)住居は家財と共に一切失われ、土地は借地であったことから、文字通りの裸一貫の戦後生活の出発であった。父親(教員)の退職金も年金も学校自体が破壊・焼失したり、私たちが広島を去って学校との連絡も中絶したことから、気付いた時には時効となり、国庫に還付されていた。したがって私たちは、被爆後一~二週間の炊出しのむすびの給付のほかは、国からも県市からも父親の勤務先からもどんな救援、救護も補償も受けていない。
(六)私は昭和三〇年ころ、白血球数が二~三千に急減し、深刻な健康上の不安におそわれたが、幸いその後はまずまず健康に生きてきた(ただし五年前から甲状腺の異常で通院中)。しかし弟(昭和二〇年に一五才、一・二キロメートルで被爆)は、四〇才代後半から白内障があらわれ、今日では左眼は失明、右眼も緑内障を併発して今月八日に手術する予定。また三人目の妹(当時九才)は学校疎開によって被爆は免れたものの、一挙に両親と家を失ったことから思春期に一時人生を歪ませ、私たちを心配させた。
(七)以上、原爆被災は私にとって、暮らしと健康、心的意識の全面にわたって人生を変える深刻な災厄となり、その作用は弟に見るように今もなお進行しているといわざるを得ない。
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