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被爆体験について 
瀬﨑 俊行(せざき としゆき) 
性別 男性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 大河国民学校(広島市旭町[現:広島市南区旭一丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
ピカドンと物凄い音飛散する物音何メートルか吹飛ばされて、あたりは暗くなりこれは唯事でないと直感した。内務班に帰る道中の廊下ガラスの破片と血が着いて部屋はめちゃくちゃ。自分の装具を身に付けて校庭に出る。若い娘さんが家のお父さんが埋っている。私の子供が家の下敷きになって居る。早く兵隊さん助けて下さい。兵隊さん助けて下さい。水を下さい。彼方此方から声がする。けが人が其の内どんどんやって来る。皮が焼けて、さがって、ぶらぶらして居る者が続々やって来る。軍医も薬もない。此が本当の此世の地獄かと思った。私達の仲間も家の中に居た者はガラスの破片で傷ついて、無傷の者は少々しか居なかった。私も運良く無傷で幸運だった。

午後になる。彼方此方から、重傷者が戸板や、タンカで運れて来て今も忘れられないのは戸板の上で母親の乳房むさぼって姿があはれであった。又若い婦人であろう死んだ我子を抱いて気違いの様にあっちに行ったり此方に来たりで私等仲間があんたの子ばかりでないですよ言って居たのを今でも思い出す。

何日たつと死臭が物凄く学校の砂場で重油かけて真黒な煙を立て、何処の何人か分らず焼いた。それを遺族の方でせう拾って持って行かれた。生前に言葉の出る人を控えていて名前を書いて学校の入口はって置きましたが名前も分ぬ人が大勢いた思います。生き埋めになった人を直ぐに助けは個人では思っても軍隊では命令がなければ個人行動は許されません。其の時、情けないとしみじみ思った。投下後に捜して居て会ってだきついて双方が泣いて居る光影を彼方此方で見たあの人達は今健在だろうかと、時々思い出す。

あの悪魔の兵器二度と繰返すな。

又アジア諸国に日本危害を加へた事を忘れてはならぬ。

場所広島市南区旭町大河国民学校
  

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