あの日から五〇年、この時間と当時六才であることを考えると、今体験を語るには余りにも困難が大きい。しかしながら、あの体験は記憶の風化を促す様なレベルとおおよそ異なり、いまだ六才の感性が脳裏にきざまれている。状況からして整然としたものではなく、あくまで断片的であることが現実である。
我家は、当時としてはまれな広い敷地内に四方が庭の邸宅で、爆心地から一・七キロメートルの平野町にあり、父は出張、兄は学徒動員でいずれも留守中、母と姉と私に加えて、二階には伯父一家三名が同居していた。
私は眼をわずらっており、そう遠くない日赤広島病院(現在地)へ母につれられて行こうとしている際の出来事であった。
身支度をし家を出ようとしていた所、言語では正確に表現することが不可解なショックを感じ、家屋は瞬時に全壊、・・・・までは覚えがあるが・・・・。
次の記憶は、なぜか一人で、多くの被爆者の方々が避難される流れの中で、おそらく無意識に同じ行動をとっていた。それは正に地獄絵の世界で、全体が火災と倒壊した家屋の道なき道を、形は人間であるが姿はそれまでに見たことのない全身血まみれあるいは着服したものがもえ倒れる人、すでに道端で体型を失っている人、焼けただれている人、あるいは御幸橋(現在地)から見た京橋川の流れは朱にまみれ、非常に多くの死体や火傷等により浮き沈む人に馬や犬等の動物も混じっていた。
私は避難者の流れに従い、着いた所は神田神社(宇品)であったと思う。そこはすでに遺体安置所であり重傷者が多く横たわり、若干の兵士の方が戦場のような言動で混乱の極みであった。
私のような子供はほとんどいなかった様に思う。体の多くに打撲や切り傷があったが、兵士の方が応急措置を施してくださった。その頃多分初めて自分が一人であることに気が付き、母恋しさに泣き続け周辺の方に迷惑をおかけしたことは鮮明に記憶している。
要するに周囲の状況や、体の痛み等より母と別れ、どこでどうしているだろうか。一刻も早く会いたい一心の日々が経過した。果してそれがどの程度の時間であるかは計り知れないが、ある日兵士の方が出来るだけ自宅近くへ行くことが家族が生存していた場合、再会の可能性が大である旨の説明を繰り返ししていただくと共に、同行してもらえることになり、避難者収容所となっていた千田小学校(現在地)へ行った。そこには一部近所の方々もおられ、その方々との出会いにより、しばらくして父と、又兄や姉と次第に家族と再会できたが、母の安否は不明で、家族が手分けをし捜し続けた結果、そう遠くない場所に両眼を負傷し、全身打撲の母が生存していることが判明し、家族全員が会することができた。
六才の被爆体験で最も記憶が確かな、かつ今後も忘れられない場面である。とりとめもなく記した。故人の御冥福と被爆者の御健康を祈らずにはいれない日常である。
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